く。やがて潮煙の彼方に、陸地が現われる。その沿岸を、船は暫し巡航し、上陸点を決定するや、まっしぐらに突き進む。船は半ば陸地に乗上げる。武装の人々は船から飛び出し、そして其処で、時ならぬ狼煙と火焔とが立昇るのである。――彼等は船を焼いたのだ。自ら退路を断って、死地に身を投じたのだ。然しそれは、果して死地か、或は豊饒なる新世界か。
 これは、シラクサの僭主アガトクレスがカルタゴを攻略した時の光景というよりも、寧ろ多く、ノルマンの或る人々が南方に新生活を求めた時の光景と、そういうことにしたいのである。
 戦争に於て「船を焼く」ことは、アガトクレスの如き無謀な暴将にして初めて為し得るのみである。然しながら、個々の勇士はみなそれぞれ、「己が船を焼いて」敵陣に突進する。「己が船を焼いて」こそ、新たな境地が開けるのである。ノルマン人にとっては、豊饒な新世界が開けるのである。
 かかる気魄を、吾々は日常忘れがちである。忘れるというよりも、いざという時になってもなお、船を焼かずに済せることが余りに多い。そしてそれが常習となったならば、どうであろうか。
 デパートには常習万引の客というのが幾人かある。多くは、社会的地位の高い、富有な、そして相当年配の所謂貴婦人に属する。眼差しに落着きがなく、化粧は入念であり、香水のかおりは程よく、毛皮の襟巻を少々汗ばむ頃まで用いる類の婦人である。彼女は店内をそぞろ歩き、あちこちの売場に立止り、鷹揚に物品を弄び、然し一品も購わずに、やがて出口へ向い、自動車を呼んで、すっと消えてゆく。もう既に、彼女の袖の下には、幾点かの品物が、多くは高価なものが、潜んでいるのである。――そうした彼女の後ろ姿を常に一人の男が静に見送っている。何処にも見かけるような平凡な様子の男で、目立たない物腰だが、眼付だけは鋭い。この男は既に、彼女の後を最初からつけていたのである。そして今彼女の後ろ姿を見送って、口辺で微笑しながら眉をひそめる。
 その月末、デパートから、万引の品物の代価の書付が、彼女の家に郵送され、やがて集金人が来る。彼女は金を払う。――そしてまた彼女は、デパートに平然と現われて、万引を働く。デパートにとっては、彼女はよい御得意様であって、そこの私設刑事が鄭重に待遇するのである。
 彼女は世の中に退屈してるのであろうか。退屈のあまり、一種のスリルを求めて、その身分と財産
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