感ずる「旅へのいざない」は、二重の意義を持つ。その旅は、あらゆる遺棄と獲得とを必然条件とする冒険の旅である。而も遺棄は確実であり、獲得は不明である。地平線の彼方は全然見通しがつかない。彼方に、「序次と美と栄耀と静寂と快楽と」が果してあるかどうか、その信念は勿論、憧憬さえも失われている。明かなのは現在が安住の地でないこと、そしてただ発足と建設。何処へ、そして何を、それは次の問題だ。先ず発足そして建設。目標は、内容は、つまり「一つの言葉」は、おのずから生れてくるであろう。――斯かる旅にとっては、前途に一筋の大道は存在しない。自ら道を切り拓いて進むより外はない。道を切り拓くにつれて、それが一つの言葉となってゆくのだ。
詭弁であろうか。なぜなら、目標不明の発足は彷徨に終り、内容不明の建設は徒労に終るから。然しながら、新たな時代の首途には、曖昧模糊たるものがあり、星雲の運行に似たものがあり、必然と偶然とが衝突しあって生ずる不可測な力がある。この力を、吾々の知性は常に追求する。
この追求に身を以て当る場合に、新たな情景が展開される。
美しい木立、柔かな草原、青い大空、晴朗な日の光、つまり豊かなる自然――なぜなら、自然は常に豊かだから。そして夢みるような街道――なぜなら、街道は旅の象徴であり、旅は夢想だから。そして二人の恋人か或は仲間――なぜなら、一人で道を進み得るのは神のみであり、人は伴侶として藁屑をも掴みたがるものであるから。そしてこの二人は、或は美服を着飾り或は襤褸をまとおうとも、或は革の鞄を抱え或は小さな包みを提げようとも、或は七面鳥の丸焼を飽食し或は堅パンを噛ろうとも、必ず、肩に一本の鶴嘴をかついでいる――なぜなら、自ら道を切り拓いてゆかねばならないから……。
豊かな自然のなかの街道を鶴嘴をかついで進む二人の恋人或は仲間。それは恐らく滑稽な情景であろう。少くとも映画の結末になり難いだろう。然しながら、「新らしい物語」を夢みるラスコーリニコフにとっては、そして作者ドストエフスキーを持たないラスコーリニコフにとっては一本の鶴嘴が必要なのである。
二
広漠たる荒海の上を、数隻の船が、満帆に風を孕んで突進する。帆船ながら、厳めしく武装されている。乗組の人々も、精気溢れた逞ましい者等で、弓矢や槍や剣を身につけている。船は波浪をつき切って、一直線に進んでゆ
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