を最後の避難所と意識しながら、万引をしにやって来るのであろうか。もしそうならば、結果は、つまらない悲喜劇の繰返しにすぎない。満たされない欲求の繰返しにすぎない。――それとも、多くの心理学者が解釈するように、彼女は一時の生理的並に精神的錯乱にかられるのであろうか。そして後で自ら惘然とし、後悔し、代金を払い、懊悩し、而もまた一時の錯乱にかられて、身分と財産を最後の避難所とする潜在意識を以て、再び犯すのであろうか、もしそうならば、結果は、単に錯乱と後悔と懊悩との繰返しにすぎない。沼の泥をかきたてることの繰返しにすぎない。
何等発展のないばかげた繰返し、それを支持するものは、彼女に於ては、身分と財産を最後の避難所とする意識であり、或はその潜在意識である。このもののために、彼女には到底、「己が船を焼く」ことは出来ないだろう。最後の避難所が、この場合、即ち「船」なのである。
遠征に出たノルマン人と、常習万引婦人と、こう並べるのは余りに均衡のとれないことであろうか。然しながら、己が船を焼くことの出来る者と出来ない者と、それを並べるのも同様に均衡のとれないことなのである。両者は人種が異るのだ。単なる万引行為に、実際に己が船を焼くような愚者はあるまい。だからこれは比喩の話である。更に、海上で己が船を焼くような愚者はあるまいし、船を焼くのは上陸した時のことである。だからこれも比喩の話である。
フローベルは晩年、ブーヴァールとペキュシェという二人の低俗なる生活を描くことに、心身を労した。彼がその二人を愛していたのか憎んでいたのか、私は知らない。ただ私は、遠征のノルマン人を愛し、常習万引婦人を憎む。そしてこの場合、愛するが故に憎む、憎むが故に愛する、というような言葉は絶対に意味をなさないものとしたいのである。
三
「種々の事物や事件は、私の頭の中では整理されて、謂わばそれぞれの抽出の中に納めてある。一事から他事に移る時には、私は前者の抽出を閉め、後者の抽出を開ける。斯くして、如何なる事柄も互に混乱することなく、また私を邪魔し或は疲労させることがない。眠ろうとする時には、私は凡ての抽出を閉め、すぐに眠るのである。」――これはナポレオン自身の言葉。
そういう頭脳を想像してみよう。そこには無数の抽出があって、あらゆる事柄がそれぞれの抽出の中に整理されている。どの抽出かが任
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング