たいと思って、そして一人でつくづく眺める。小鳥の声をきくと、先ず君に聞かしたいと思って、そして一人じっと聞く。うまい物をたべると、先ず君にたべさせたいと思って、そして一人でゆっくりたべる。腹が痛むと……。」
とぎれたところへ、彼女がふいに云った。
「腹が痛むと……。」
父は何とも云えない変な顔をした。彼女はくく……と笑って、それから急にははははと笑いだした。父も笑ってしまった。彼女は帯の上をたたき、父は首をかかえて、二人ともいつまでも笑ってやまなかった。
突然のその朗かな笑いが、二人の気分を晴れやかになした。後になっても、「腹が痛むと」という言葉が、楽しい話題となった。
「腹が痛むと……。」がでたらめな嘘であったとしても、それは、前の凡てをでたらめな嘘となしはしなかった。却って前の凡ての真実性をますに過ぎなかった。愛とはそういうものか。最後の一つの嘘で、気持を悪くしたり怒ったりするのは、本当の愛を知らない者のすることだ。
君も、恋人があったらためしてみ給え。もし君の恋人が笑わなかったら、それは、君たちの愛がまだ不安定な証拠だ。
君の父がもし、その時の朗かな笑いのうちに、彼女と
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