し合ったことがある。而も、随分せっぱつまった愛情で愛し合ったらしい。そうして或る晩、とても朗らかな笑いをした。
雨にでもなりそうな静かな晩だった。父は前日からその女と逢っていて、まだ互に別れかねていた。愛する者同士の間では、時間が実に早く過ぎ去るし、為すことも話すことも、とりとめないつまらない事柄ばかりだし、だから、いつまでたっても、もうそれでよいという別れの時間が来ない。父もその女も、初心者ではなかったが、愛というものはいつも同じで、いつも若々しい。二人ともいやにしみじみとした気持で、一寸したことにも涙ぐみそうだった。
僕はもうとてもいけない。とそんなことを父は云い出した。始終君のことばかり考えていけない、とも云った。あたしもそうよ、と女も云った。それは当り前のことで、愛し合った男女が相手のことを思い出さないとしたら、どうかしている。
「始終君のことばかり考えてるようだ。たとえば、月を見ると……。」
平凡な言葉だが、それがいやにしっくり落付いて、少しもおかしくなかった。大真面目なのだ。
「月を見ると、先ず君に見せたいと思って、そして一人でつくづく眺める。花を見ると、先ず君に見せ
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