散歩は、落魄した父と孤独な君にとっては、一の慰安だったろう。父にとっては酒の酔と異る陶酔があり、君にとっては酒の酔に似た感傷があったろう。そしてその思い出は、君の身内に長く生きている。然し、そういう思い出こそ、投げ捨ててしまわなければいけないものなのだ。
正夫よ、君の父はほんとに自殺の決心をしたことがあった。幾日も家にひきこもっていて、後頭部に鉛のかたまりでもはいってるかのような沈黙を守ってることがあったろう。ああいう時だ。然し父は自殺をしなかった。劇薬が手にはいらなかったからではない。薬剤の代りには、拳銃もあれば短刀もあった。或はそのための旅に出るだけの金も、工面すれば出来ない筈はなかった。然し父は死ななかった。何故か。自殺の決心を実行に移すだけの或る光ったものが不足していたからだ。
あの頃、父はひどく酒を飲んだ。放蕩もした。経済上の極端な行詰りを投げやりにした。精神も身体も弱り、寝つくほどではなかったが実際病気でもあった。希望をすっかり取失っていた。だがそれらのことは、ただ父の世界を陰鬱にするだけで、何等の光をも、絶望の光をも、齎しはしなかった。人は如何に悲惨のどん底に陥って
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