屈めた。それから全く口を噤み、誰にも挨拶もせず、様子も尋ねず、控室の片隅に蹲っていた。
 矩子は後れてきた。死体の側で、さめざめと泣いたらしかった。自殺とのことを聞いて、全身を震わして泣いたが、中途で泣きやんで、幻を追うような様子に変った。泣きばれのした眼が乾き、額も頬も冷く蒼ざめ、その顔全体がひどく美しかった。君の父はその美しい顔にじっと眼をとめて、かすかな微笑の影を頬に浮べ、同時に眼の中に涙をためた。
 茲で云っておこう。秋山と矩子とはひそかに愛し合っていたのだ。君の父はそれを秋山から打明けられたのだった。
 病室に集ったのは、ごく近親の者と親しい者だけだった。不慮の事件のためには、いろいろ多用だった。君の父は始終沈着で、何かと指図する役目の方に廻っていた。そして常に矩子から眼を離さなかった。
 一通りの用件がすむと、枕頭の卓子の上に置かれて誰も手に触れようとしない拳銃を、君の父は取上げてハンカチに包んだ。そして黙って上衣のポケットに入れた。公然となされたその動作を、一人として怪しむ者はなかった。
 夕刻、死体は自宅へ帰った。その夜道く、奥庭に面した縁側で、君の父は矩子と短い会話を
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