っかり為されたし、彼女の仕事はおもに研究所の方にあった。ただ、家の中で、彼女はいつも、足音を忍ばせ小腰を屈めて、というほどではないが、目立たぬようにしとやかに振舞い、座席にも気を配った。そしてそれが一層ばかばかしいことには、彼女自身、知識も教養も相当に具えてる、三十歳の身の上なのである。
 洋介は、誰に対してもあまり話しかけなかったが、どういう時ということなく、ふいに、じっと人の顔を見る癖があった。その視線を受けると、千枝子はいつもより更に縮こまった。食事の時などは、彼の視線がいつじっと注がれるか分らないので、一層かたくなった。ただそういうこと以外、彼は彼女に無関心のようだった。その上、彼の日々はひどく不規則だったので、彼女が彼に接する機会も少なかった。それでも、彼の存在そのものが、いつも重々しく家の中に感ぜられた。彼に大変気を遣っているような房江の影響もあったらしい。
 お花さんだけは、何の遠慮もなく彼を昔通りに子供らしく取扱い、そして彼を「お坊ちゃま」と呼んでいた。その呼称が千枝子には羨ましかった。千枝子は彼を何と呼んでよいか困った。お坊ちゃまでは固より変だし、若さまとも言えないし
前へ 次へ
全46ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング