るね。」
 井野老人はさもおかしそうに首を縮めた。――あの弁慶蟹は実にばかな奴だ。あれをつかまえて、さんざん怒らせて、火のついたマッチの棒を手にはさませるのである。蟹は怒って、マッチの棒を力一杯にはさんでいる。そのうちに、棒はだんだん燃えつきてゆき、手元まで燃えて、手が熱くなる。蟹は驚いて、目玉をつき立て手をうち振るが、やはりマッチをはさんでいる。手の鋏を開いてマッチの棒を捨てることを知らない。手があまり熱くなると、蟹は手を根本からぽろりと落して、逃げてゆく。もっとも、手はまた生えてくるものらしいが、それにしても、手を落してゆくくらいなら、初めから、鋏を開いて、マッチの棒だけを捨てればよさそうなものだ。
「子供の時、私はそんなことをしてさんざん遊んだものだよ。」
 一同はその話の続きを待った。井野老人はやがて言った。
「マッチの火は吾々の慾望だよ。吾々はそれを捨てることを知らずに、いつまでもじっと握ってるものだから、遂には、手か足か何か大事なものまで、捨ててしまわなければならないことになる。ところで、私にとっては、そのマッチはビールだ。世界がひっくり返っても飲みたい。その私に、ここでは
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