。電話をかけておいたから懸念はいらないと、洋介はその度に答えた。
「なるほど、電話があるんだな。表の店……いや、ここから言うと裏の店に、電話があるんだな。」
 その薄暗い小さな酒場に電話の便宜があることが、井野老人の注意を惹いたらしかった。
 酒場の土間の方には、棕櫚竹の鉢植が幾つも並んでいたが、それも井野老人の注意を惹いたらしかった。
「棕櫚竹がたくさん並んでいるが、なぜ棕櫚竹ばかりなんだ。」
 それには洋介は答えが出来なかった。だが答えはいらなかった。
「いや、なかなか宜しい。」
 二人は小部屋の方に坐りこんで飲んだ。洋介の飲み仲間が三人ほど一緒だったが、井野老人は前々からの知り合いのように遠慮なく振舞った。
 大田梧郎が幾度も、ビール瓶を新たに持って来て、空いてるのをさげていった。
「やあ、御主人か、度々どうも恐縮だな。然し、こんなに飲んでも構わんのかな。」
 大田は無表情に頷いた。
「いや、ますます宜しい。ここでは、たとい私が蟹であっても、自分で自分の手をもぎ落さないで済みそうだ。」
「蟹というのは、何のことですか。」と、洋介は尋ねた。
「弁慶蟹……あの赤い小さなやつ、知ってい
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