だけだった。そういう彼について、房江はひどく気を揉んだが、どうにもならなかった。――そしてまた房江は、吉村とのことを彼に知られるのを、最も恐れていた。それはなんだか彼女の致命傷になりそうだった。最後の思い出に、吉村と一晩ゆっくり逢いたい、そしてもう後はさっぱりしたい、そういう約束だったのであるが……。
「今後とも力になって下さるわね。」と彼女は足先に眼を落しながら言った。
 ぽつりぽつりと、そのような語をしながら、二人はゆっくり足を運んだ。
 大きな椎の木が、道の上まで覆い被さっていた。椎の花のむせ返るような匂いが濃く漂っていた。吉村はハンカチで顔を拭きながら呟いた。
「椎の花、五月の匂いですね。」
「え、五月の匂い……。」
 房江はその言葉を繰り返して、椎の茂みの方を仰ぎ見たが、その瞬間、眩暈に襲われたかのように、よろけかかって吉村へ縋りつき、彼の胸に顔を伏せてしまった。

 高石老人と井野老人とが波多野邸で落ち合うことになった時、文化研究所の移転問題が公然と議せられた。未亡人房江は脳貧血の気味で寝ていたが、自分の代りに、魚住千枝子を席に侍らして、秘蔵のコーヒーとウイスキーを出させた
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