して右手を腰の後ろにやっていた。その右手に、瀬戸の重い灰皿を握りしめていた。私はその手首を捉えた。灰皿はすぐ彼の手を離れて私の手に移った。その時には、山口はもう数歩押しやられていた。そして山口はちょっとよろめき、表へ出て行った。
洋介は元の席へ戻ってきたが、眉をしかめて黙っていた。大田が出て来て、殆んど[#「殆んど」は底本では「殆んで」]無表情の顔で言った。
「ビール一本、損しちゃいましたよ。」
洋介も殆んど無表情で言った。
「あいつ、探偵気取りでいやがる。」
それだけのことであった。然し、そのことは、洋介の隠れた一面を私達に啓示してくれたのである。
その時のことを、もう洋介は忘れてしまったかのように、ぼんやり微笑んでいた。
高石老人は詮索しなかった。
「それでは喧嘩にもならん。だが、君もあまり飲んでばかりいないで、研究所の方にも身を入れるんだな。」
彼に反して、研究所の事務員として真剣に働きたいと言っている者があるのを、高石老人は打ち明けた。――魚住千枝子のことだった。今迄はただ、室の掃除や図書の整頓だけをしていたが、今後は、ほんとの事務員として働きたい。カードの整理をし、まだ備えつけてない必要図書の調査をし、研究員の希望事項を訊し、その他出来るだけのことをしたい。研究所がもし高石邸へ移転するようなら、毎日そちらへ出勤したい。その代り、すっかり事務員になりきるために金額の多少を問わず、手当を支給して貰いたい……。
この最後のことを、高石老人は賞讃した。
「多少に拘らず手当を貰って、事務員として責任を持ちたいというのが、わしの気に入ったよ。無給でもよろしいというところを、千枝子さんはそうでない。あのひとならりっぱに仕事をしてくれそうだ。」
何事にも一個の見解を提出する癖のある佐竹は、皮肉な調子で言った。
「手当の金など必要でない者が、手当をほしいと言いますよ。そしてほんとに必要な者は、ほしくないような顔をしますね。」
「然しこの場合は少し違いますね。」と吉村が言った。「手当を貰うことによって責任の自覚を自分に強いるという、心構えの問題でしょう。」
そして二人の間に、近代人の逆表現と自意識とが、暫く話題となった。
その時、当の千枝子がはいって来た。話が途切れて、人々の眼がちらと彼女に注がれ、瞬間にまた外らされた。彼女はそれを感じてか、頬から血の気が
前へ
次へ
全23ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング