話を伝えた。――数日前、山口は日本橋裏の或る酒場に行ったらしい。すると、ビール一杯も飲まないうちに、そこにいた四五名の酔っ払った無頼漢に取り囲まれて、喧嘩をふきかけられたが、彼はそれを巧みにあやなして、外に出たらしい。その酒場がどうやら、波多野洋介が経営してる店らしい。あのような無政府状態の店は、改良する必要がある……。
ただそれだけの、甚だ曖昧なそして簡単な話だったが、なにか割り切れない不純なものが感ぜられた。
高石老人は眉をひそめた。素知らぬ顔で碁に耽ってる洋介に呼びかけて、こういう噂があるがと、佐竹の話をはじめた。
洋介はそれを中途で遮って、ぼんやりした微笑を浮べて言った。
「あの時は僕もそこにいましたよ。よく知っています。」
「うむ、そこで、真相はどうなんだ。」
洋介はまた微笑した。
「もっとも、僕も少し酔っていました。山口は、たしかに、ビール一本飲みました。それでもう、金が無くなったかして、出て行ったようです。ばかばかしい話ですよ。第一あの店は僕がやってるのではなく、僕はただ客の一人にすぎません。」
そして彼はまた碁盤の方に向いた。
相手の井野老人は高い声で笑った。
「つまらん話だね。だが、そこにはいつでもビールがあるのかね。それなら、僕もこんど案内して貰おう。」
「ええ、いつでも御案内しますよ。」
ところで、実は、そのつまらぬ一件が起った時、私もそこに居合していたのである。――洋介も一緒に、私達は奥の小部屋で焼酎を飲んでいた。そこへ、山口が一人ではいって来て、土間の方の卓につき、ビールを註文した。大田梧郎がビール瓶と小皿物を出した。山口は視線を静かにあちこちへ移して、なにか探索してるようだった。ビールを一本飲んでしまうと、煙草をふかしながら、通りかかった大田に声をかけた。
「おい、ビールをもう一本くれ。」
卓上に帽子を置き、身を反らして、天井に煙草の煙を吐いた。
誂らえの品は手間取った。山口は叫んだ。
「おい、ビールだ。」
その時、洋介が立ち上って土間の方へおりて行った。なにかただならぬ様子なので、私も後に続いた。
洋介は真直に山口の方へ行き、卓上の帽子をぱっと払い落した。山口が先ず帽子を拾って、それを片手につっ立ったのへ、洋介は浴びせた。
「一本でたくさんだ。出て行きたまえ。」
彼は左手を伸ばして、山口の上衣の襟を掴んでいた。そ
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