な情慾も恐らくなかったろう、病気で田舎に行ってる妻が彼にあることは、万一の場合の堤防ともなる筈だった。条件が揃ってる安全な火遊びであった。否、火遊びといえるほどの積極的な意志もなく、自然の誘惑への無抵抗な陥没だった。彼の方にはただ甘える気持ちがあった。意力も体力も創作力も衰えてゆき、而もその衰弱を意識しないで、その日その日の自己満足に安んじていた。精神生活の停止もしくは低下に身を任せた安らかさだった。その安らかさに甘える気持ちは、無抵抗のうちに彼女へ倚りかかっていった。対象のない漠然たる甘え方が、彼女を得て、観念的要素を多く含んだ肉体的快楽までも伴った。そういう彼に、彼女も安らかに倚りかかった。政治や経済上の政策、つまりは手段とか方法とか謀略とか、そういう雰囲気の中にばかり生きてきた彼女にとって、彼の漫歩的な気質は、木の葉や草の葉のような新鮮さを持っていた。そして彼のとりとめのない談話によって、彼女は気分をいたわられ、感情の機微を擽られた。文化研究所だの、新たな政党だの、なにかざわざわした動きが周囲にあるだけで、未亡人たる自分の存在はいつしか忘れられかけてるような淋しさを、彼女はしみじみと感じていた、その中での支柱でも彼はあった。而もこの支柱は甘い砂糖だった――すべてそれらのことは、敗戦の打撃と彼等の属する階級とに根ざしてるものであったが、彼も彼女もそこまで考えなかった。もし考えていたら、二人の関係は単なる社交だけに終っていたかもしれない。
秘蔵のコーヒーにウイスキーを注いで飲み、それから二階の室で書画を見、次いで焼け野原に夕日の沈むのを窓から眺めた。残照が消えてしまった時、二人の肩は相接していた。それをどちらも避けようとしなかった……。その時からのことである。
彼は酒を好きだったし、彼女も少しは嗜んだ。
一度に銚子を二本と、ちょっとした小皿物とを、女中は運んできて、黙ってさがっていった。吉村は眼を細めた。
「嬉しそうね。」と房江は言った。
彼女は気のなさそうに杯を取り上げたが、それを干すと、彼の様子をじっと眺めた。
「あなたは、千枝子さんを好きではありませんでしたの。」
彼は唇をちょっと歪めた。
「千枝子さんは、あなたを好きだったようではありませんか。」
彼はまた唇を歪めた。ややあって言った。
「愚問には答えません。」
彼女は揶揄するように眼を光らし
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