は立ち上り、室にはいって、房江と向い合いに坐りかけたが、俄に、身をずらせて、彼女の膝に顔を伏せてしまった。少しく白髪の交ったその髪の上に、彼女は片手をやった。それから静かに、彼の顔を挙げさせようとした。
彼は頭を振って、彼女の膝にまた顔を押しつけた。
「どうしたの。」と彼女は囁いた。
「なんだか……。」
「また、極りがわるいの。」
彼女は突然、彼の頭をかき抱いた。
「おかしな人ね、子供みたい。」
「だって……。」
「もういいのよ。なんでもいいの。ね、そうでしょう。」
彼女の腕がゆるむと、彼は静かに顔を挙げた。近々と彼女の顔があった。その細く閉じかけた眼の、厚ぼったい重い瞼がおもむろに持ち上がり、額に幾つもの皺をこさえ、瞳が輝きを含んで微笑んでいた。
何かが一変した感じだった。その厚ぼったい瞼と輝きを含んだ瞳、それから、額の皺としぼんだ乳房、両方が別々なものとなって吉村の眼に映った。彼は男性の矜りを取り戻した。坐りなおして、彼女を眺めた。彼女は伊達巻だけの姿だったが、粗い十字を浮かした大島の着物に、長襦絆のしっとりした縮緬の半襟で、鬢の毛には櫛の歯跡が清楚に見えた。彼は浴衣に丹前を重ねた自分のみなりの襟を合せた。がその後で、悪戯っ児のようにうそうそと笑った。
彼女は彼の顔をひたと見つめた。
「おばかさん……。」
それからがくりと折れるように、上半身の重みを彼の方へよせかけてきた。
「約束のように、出来るかしら。」
「約束なんか、どうだっていいですよ。なるようになるでしょう。」
彼はちらと眉根をよせた。
「少し、飲みたいけれど。」
「どうぞ。わたしも飲むわ。」
彼は卓上の眼鏡をとり、女中をよんだ。
房江は帯をしめてきた。食卓にきちっと就くと、肉附きのよいその体は、磐石を据えたように見えた。彼女は庭を眺めやった。
「静かないい家ね。」
そして庭から彼の方へ眼を移した。
「どうして、こんなことになったのかしら……後悔なさらない。」
「あなたも、後悔しませんか。」
二人はまじまじと眼を見合った。非常にあらわな眼付だが、それでもなにか、互に遠くから見合ってるような工合だった。
後悔などはなかった。それは初めから分っていた。四十五歳の未亡人の彼女と、世間に名を知られてる五十歳の文士、それが却って安全弁だった。体面への顧慮もあり、分別もあった。また、向う見ず
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