向いただけで、また空を眺めた。
「何をしてるの。」と千枝子は言った。
「雲を見てるんです。面白いですよ。」
「面白いより、凄いわね。」
「こんな時に、竜が天に昇るって、昔の人はうまいことを言ったものですね。」
黒雲はその厚みが測り知れないほど重畳していた。突風が表面を掠めてるらしく、砂塵をでも挙げるように灰色の煙が千切れ飛び、更に内部にも突風が荒れてるらしく、真黒な塊りが巻き返していた。日の光りは全く遮られて、薄闇が雲から地上へと垂れていた。
大粒の雨が、ぽつりと来そうでもあり、一度にざあっと来そうでもあった。だが、雷鳴は少しもなく、大気は乾燥していた。
千枝子は突然、小池に呼びかけた。
「小池さん、煙草を一本下さらない。」
小池は彼女の方を眺めた。
「煙草を、どうするんですか。」
「勿論、吸うのよ。」
彼女も縁先に腰掛けて、唇の先で煙をふかした。癖のない細そりした指と、貝殻のような美しい爪との、その手先は、映画女優のそれのようであり、薄い皮膚の張りつめた頬は、蝋細工のようだった。小池は雲の方をやめて、彼女の方を眺めていた。
「煙草なんか吸って、いいんですか。」
「わたしだって吸うわよ。」
「然し、今まで一度も……。」
「遠慮してたのよ。」
そして彼女は、やはり空の雲から眼を離さずに、しみじみと言った。
「なんだか、窮屈になってきたわ。遠慮したり、気兼ねしたり、いつもそうでしょう。それが、こちらの……波多野さんが帰っていらしてから、殊にそうなの。別に、怖いわけじゃないけれど……変ね。」
「波多野さんは自由主義ですよ。あなたが遠慮してるのは、奥さんの方でしょう。」
「いいえ、小母さまには遠慮なんかないわ。」
「それでは、ここの、雰囲気かも知れません。」
「そうね。そんなものが、……帰っていらしてから、はっきりしてきたのかも知れないわ。そうだとすると、わたし、ずいぶん迂濶だったのね。」
「なにが迂濶ですか。」
「そんなことに、これまで、気がつかなかったのよ。小池さんは呑気でいいわね。煙草を吸ったり、酒を飲んだり、薪を割ったり……。」
「そりゃあ、僕は男ですもの。まあ、謂わば書生ですね。」
「小池さんが書生なら、わたしは何でしょう……一種の女中ね。書生がすることを、女中はしていけないでしょうか。」
「それは面白い問題ですね。波多野さんに聞いてごらんなさい。」
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