「ええ、聞いてみるわ。」
「返事はきまってますよ。書生がすることは女中もして宜しい、人がすることは誰でもして宜しい……波多野さんならきっとそう言われますよ。奥さんの方は分らないけれど。」
「そうかしら。」
「然し、あなたは女中じゃありませんよ。」
「それでは、何なの。」
「家族の一人ですね。だから、少し窮屈なんでしょう。」
「違うわよ。まったく逆よ。いえ、こんなこと、男には分らないでしょう。やっぱり、男と女とは、立場が違ってよ。」
「そうなると、僕にはよく分りませんね。」
 そんなことはどうでもよいという調子で、投げやりに言って、小池はまた空の方を眺めた。
 いつのまにか、強い明るみが地上に流れていた。黒雲は東へと移動し続けていて、西空の濃い本拠が拭われるように薄らいでゆき、真綿のように透いてきて、日の光りさえも洩れそうになった。
「降ればいいのにねえ。」と千枝子は言った。
「降らない方がいいですよ。」と小池は言った。
 そして二人はまた空を眺めた。東の空の黒雲は、もう渦巻きもせず、風に吹き飛びもせず、静に地平線の方へなだれ落ちていた。
「ひどく仲よさそうですね。」
 はずんだような声の調子で、山口専次郎がやって来た。櫛の歯跡が目立たぬほどに髪をふわりと梳かし、空色の縁取りのあるハンカチの耳を上衣の胸ポケットから覗かしていた。
 彼は研究所の中をわざとらしく見廻して言った。
「ああ、今日は休みでしたね。だいたい、日曜日を休みにするなんか、おかしいですよ。学校ではありませんからね。この点だけは、僕は不服ですね。」
 千枝子は空を見ながら言った。
「日曜日でも、書物を御利用下すって構いません。」
「いや、僕はあまり読書をしない方ですが……。」
 そこで言葉を切って山口は二人の様子をじろじろ眺めた。
「何か、お話中だったんですか。」
「ええ、書生と女中との話です。」
 挑むような言葉に、山口は眼をしばたたいた。然しそんなことに気を遣わないで、彼は言い出した。
「この研究所を閉鎖するという噂がありますが、本当でしょうか。本当だとすると、僕には波多野さんの考えが分りませんね。」
 そして彼は一人で饒舌りだした。――今までまだ、研究所はまとまった研究結果を挙げていないが、然しこういう施設は大変役に立つ。これによって、過去の文化の誤謬が発見され、将来の文化への一指針が確立されるだ
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