意味に微笑んだ。
「それから、も一つ……あの五郎とかいう店へ連れていって下さいませんかしら。」
お菊さんは、こんどは安心して微笑んだ。
「それは、わたくしには……。お坊ちゃまにお頼みなさいませよ。」
お坊ちゃまという言葉を納得する間、千枝子は黙っていた。
「お酒を飲みに行くのではありません。あすこで働けるかどうか、見に行きたいと思っています。」
お菊さんは返事をせずに、野菜の籠を取り上げた。そして二人とも無言のまま家の方へ行った。
縁先に腰掛けて、お菊さんはしみじみと千枝子の顔を眺めた。
「つまらないことを考えるのは、おやめなさいませ。誰でもどんなことでも出来るというわけではございませんからね。」
「いいえ、ただ、何でもよいから一生懸命に働いてみたいと思います。」
「今迄どおり、御勉強なすったら宜しいではございませんか。」
「勉強よりも、働くことです。」
お菊さんは口を噤んで、野菜を整理した。そこへ、戸村が姿を現わすと、千枝子は改まった御礼を言い、野菜の袋をさげて帰って行った。その後ろ姿を眺めながら、お菊さんは先刻の話を伝えた。
「あのひととは、なんだか話がしにくいわ。全くの本気らしいようでもあるし、こちらがからかわれてるようでもあるし……。」
戸村は考えながらゆっくり言った。
「あのひとには、なにもかも本気だろう。ただ、頭がよすぎるから、ちょっと危いね。」
千枝子の後ろ姿は、焼け野原の中に長く見えていた。かさばった野菜の袋をさげ、男みたいに肩を張り、頭をつんともたげてわきみもせず、ゆっくり足を運んでゆく、そのモンぺ姿は、青々と伸びてる麦の間を、電車通りの方へ、次第に遠く小さくなっていった。
雨がちで冷かな数日の後、いやにむし暑い日が来た。その午後、西南の中天に真黒な雲が屯ろし、それが渦巻き拡がり重畳して、空を覆うていった。地平近い明るい一線も隠れ、黒雲は南から東へと急速に移動しながら、西に本拠を置き、北方に僅かな青空を残すのみとなった。天地晦冥といった趣きで、樹々の若葉がざわめいた。
魚住千枝子は、暴風雨の用意にというほどではなく、ただなんとなくそこらを見廻る気持ちで、文化研究所の方へ行ってみた。日曜日のことで、研究所は休みだった。家に寄宿してる学生の小池章一が、縁先に腰掛け、煙草をふかしながら、空を眺めていた。千枝子が側へ行っても、ちらと振り
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