猫先生の弁
豊島与志雄
猫好きな人は、犬をあまり好かない。犬好きな人は、猫をあまり好かない。多少の例外はあるとしても、だいたいそう言える。猫と犬との性格の違いに由るのであろうか。
戦争前のことであるが、下谷花柳地の外れに、梅ヶ枝という小料理屋があった。出前を主にした店であったが、確かな品を食べさせてくれるので、ひいき客がだいぶあった。特別の連れがある時は二階に通り、さもない時は階下の土間の卓で飲食するのである。その小料理屋で、犬の先生に私はしばしば出逢った。
犬の先生というのは、美術学校の教授であるが、犬好きなところからそういう渾名があり、私の方は猫の先生という渾名である。
「やあ、犬の先生。」
「やあ、猫の先生。」
というようなわけで、酔いが廻ってくると、犬猫の喧嘩だ。
犬の先生――「猫という奴は、どだい、利己主義者で、忘恩の徒で、話にならん。何か物がほしい時には、にゃあにゃあじゃれついて、媚びへつらうが、用が無くなれば、知らん顔をして、そっぽ向いて、呼んでも返事をしない。あんな得手勝手な奴はありません。」
猫の先生――「そこが、猫の自主的精神というものですよ。犬はなんですか。徹頭徹尾、奴隷根性だ。気が向こうと向くまいと、用があろうと無かろうと、いつでも主人に尻尾を振って御機嫌を取ろうとする。本能的に、骨の髄まで、奴隷根性がしみこんでいる。いや、奴隷根性を除いては、犬自体の存在はない。犬は忠実だと言われるけれど、奴隷の忠実なんかに、いったい何の意味がありますか。愚劣と無自覚の標本にすぎない。」
犬の先生――「いや、犬はちゃんと自分の地位を知っています。智慧もあります。自分の職分を心得ています。自分の小屋の伏床に寝ね、時としては困苦欠乏にも耐え、盗賊などの外敵を防ぎ、人間の散歩のお供もする。猫にこそ、何の自覚もありません。鼠を捕るのはただ本能に由るだけで、それ以外、いったい猫に何の職分がありますか。」
猫の先生――「そんなことは、人間の功利心が言わせる言葉です。凡そ家畜動物の中で、猫ぐらい人間に近い生活をしているものがありますか。人間と同じ家屋の中に住み、同じ食物を食べ、同じ布団の中に眠り、而も跣足で屋内屋外を濶歩するなんか、人間以上だ。それというのも、猫は最も清潔な動物だからです。犬の臭気、水浴をしても温浴をしても決して取れない臭気、あの体臭はもう犬にとって致命的です。猫には、体臭というほどのものは殆んどない。その上、隙さえあれば、体の汚れを嘗め清める。更に感心なことには、体を嘗めているとどうしても脱毛を呑み込むし、それが胃袋にたまるので、時々、笹の葉やそれに類する草の葉をわざと食い、それで食道や胃袋をくすぐって、毛を吐き出してしまう。これは人間にも出来ない芸当だ。毒物に対しても極めて敏感で、誤って呑み込んでもたいてい自分で吐き出してしまう。このような点でも、犬の方がずっと野蛮ですよ。」
犬の先生――「それは、猫の方が本能的に敏感だということに過ぎないし、人間の住宅に侵入してきたのも、単に性質がずるいということに過ぎない。飼養動物としては、猫の方は野性的だが、犬の方は人間の生活によく順応してつまり、進化の度が高いと言えるでしょう。」
猫の先生――「猫は本来立派だから、進化の必要がなかったのです。第一、犬は全色盲ですよ。全色盲ということは、つまり灰色の世界に生きていることで、情けないじゃありませんか。」
犬の先生――「え、犬が色盲ですって……。」
ここで、美術学校教授の犬の先生は、止めを刺された形である。もっとも、犬が色盲だということは確かでなく、書物で読んだか人に聞いたか夢に見たか、猫の先生にもあやふやで、いい加減に言い出したに過ぎなかった。
この両先生の論争は、実は数回に亘り、もっともっと微細を極めたものであって、店の料理と一緒に酒の佳肴に供されたのである。それを茲に要約するに当って、猫の先生たる私は、いくらか猫にひいきしたかも知れないが、然し、後になって、犬の先生が猫を飼ったということを聞いたのは愉快だった。その小料理屋は戦災に焼けてしまったし、犬の先生の消息も途切れた。だが私は、未だ嘗て犬を飼ったことはない。
その代り、猫のために不思議な経験をしたことがある。
私の家には、廊下の奥の扉の下部に、猫の自由な出入口がある。約四寸四角ぐらいな穴で、そこに板戸をぶらりとおろし、内からでも外からでも突き開けられるようになっている。内部は廊下であり、外部には古い石像の踏み台がある。猫は利口で、そこを数回出入りさせると、あとは独りで自由に通行するようになる。
もともとこの家は、貧乏な私に不時の以外な収入があり、それをふしだらに浪費していたところ、ロザリヨと称するグループの友人たちが、よってたかって家
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