うな肌ではなく、蜜柑のような肌だ。またね、それが水菓子屋の娘の言う言葉なのか。俺は彼女と別れてから、ぺっぺっと唾を吐いた。
それきり、もう彼女とは逢わないことにしている。何が征服だ。彼女から征服されたに過ぎないではないか。
彼女がいなくなっても、永久にいなくなっても、俺は何等の痛痒も感じない。だが、行き倒れみたいな女が、その足先の捨て仔猫といっしょに、いつしか姿を消してしまったことについては、俺と全く無関係なことではあるが、心にちょっと冷たい風が吹く思いだ。この思いを、地下室は嘲笑いはしないだろう。
地下室の中の死体は、あの焼け爛れた死体も、アルコールの中にぶかぶか浮いてるだろう死体も、病院に買い取られた無縁のものではあっても、嘗ては誰かの血縁の者であった筈だ。その血縁のつながりが、つまり人間のつながりが、深夜になって囁くのだ。
「早く行け、早く行け。」
怪談ではない。悲しい遣る瀬ない心の囁きなのだ。いずこかへ姿を消した行き倒れの女も、同様に囁く。
「早く行け、早く行け。」
あの仔猫でさえも、同様に俺に囁く。
どこへ行ったらよいのか。――俺は死にかけてる母のところへ戻っていった。姉が万事みとってくれるので、俺はただ側についておればよい。
母は疼痛を訴えることが少なくなった。医者は逆に、危機が近づいたと言う。もう苦悩の力さえ失ったのであろうか。痛々しくて見ておられない気持ちだ。
見舞客もすべて、玄関の三畳での応対だけで帰って貰う。この三畳は、俺たち一家と二階の一家との共通のもので、いわば両家の応接室だ。友人が来ると俺はそこで対談する。
中学時代の旧友が、或る晩、一瓶をさげて訪れて来た。玄関の三畳で飲んだ。その酒が彼は自慢なのだ。屋台店などに氾濫しているアルコール焼酎よりも遙かに上等で、アルコール・ウイスキーだと自称する。ちょっと色をつけ、ちょっと味をつけてある。彼自身の考案なのだ。これを飲み屋に卸せば可なりの利益になる。大量に生産して、莫大に儲けるつもりでいる。原料はいくらでも手にはいる、一緒にやらないか、と彼は俺に勧めた。
「非合法な仕事でもなんでも、構うものか。うまい酒を同胞に供給してやるんだ。そして酔っ払わしてやるんだ。」
彼は戦時中に召集されて、関東平野をあちこち歩かせられ、終戦後の復員で戻って来たのである。
彼の話によれば、兵隊としての主な仕事は、ただ地面を働い歩くことだったらしい。出来るだけ体を地面に低くつけ、腕と膝とで、出来るだけ早く匍い進み、背負った爆薬と共に、仮想の敵戦車にぶつかるのだ。出来る限り低く、出来る限り早く、匍ってゆけ匍ってゆけ。それが毎日の仕事だ。
「戦争が終って立ち上ると、俺は眩暈がした。」
「酔っ払った時の眩暈と、同じか。」
「いや、そんなもんじゃない。酔っ払った時は、外の世界がぐるぐる廻る。俺たちのは、頭の中がぐるぐる廻った。」
俺たち、と彼は複数で言った。だが、それは兵隊だけに限らず、更に大きな複数ともなろう。大抵の者が、何等かの意味で、地面を匍い歩いていたのだ。立ち上って眩暈がしたのは、まだいい方で、多くの者は、腹匍いのままぐったりのびてしまった。
そんなのが、上野駅附近に寄り集まって、うようよしている。風に吹き寄せられたのでもない。箒で掃き寄せられたのでもない。腹匍い腹匍い、行きづまって、自然と落ち合ったのだ。そして芥溜のようにつもって、むんむん温気を立てている。
アルコールを振りまいてやるがいい。アルコール焼酎でもよろしい。アルコール・ウイスキーでもよろしい。俺は友のアルコール・ウイスキーに賛成だった。
「協力してやってくれるか。」
「も少し待て。考えてみる。」
戦時中、俺は或る軍需会社に勤めていたが、それが終戦後、解散になって、その時の手当で、姉一家の生活にもさして迷惑をかけず、小遣に窮することも大してないが、このままではやがて切羽つまることは明かだ。何とかしなければならない。然し、どこかに勤めるのは嫌だ。自分の仕事、そう言い切れるようなものが欲しい。さりとて、アルコール・ウイスキーの密造も考えものだ。金は欲しいが、金に執着しちゃあいけない。執着はすべて浅間しい。
その浅間しさを、俺は空襲中にいろいろ見せられた。
隣家の一室に、焼け出された夫婦者が身を寄せていた。荷車を一つ持っていた。空襲警報が鳴ると、その荷車にごたごた物を積んで、三百メートルばかり先、焼け跡の中の防空壕まで、避難する。どんな深夜でもそうだ。警報が聞えるとすぐ、彼等は飛び起きて、荷車に物を積み、しばし様子を窺ってから、車を引きだす。男が柄を引き、女が後押しをして、がらがら、がらがら、深夜の巷に音を立てて、焼け跡へ向う。警報が解除になると暫くたってから、がらがらと、こんどは少しゆっくり戻って来る。そして車の荷を解き、また寝てしまう。車の荷は、つまらないものばかりだ。布団と毛布、鍋釜、皿小鉢の類、小さな行李、米が少量、風呂敷包みなど、かねて用意してあるものらしい。
焼け跡が、そしてそこの防空壕が、果して安全なのであろうか。もっとも、立ち並んでる小さな人家は、焼夷弾に対しては、薪を置き並べてるのに等しく、そこに居ることは、火の下の薪の中に居るようなものである。然し、他人の家に身を寄せてるからには、自分たちだけ逃げ出さずに、そこの家人と協力して、防火や荷物搬出や避難を共にすべきであろう。だが、彼等夫婦は、他を一切顧ることなく、がらがら事を引いて逃げ出すのだ。
車の荷は、つまらないものだが、さし当っての生存必需品には違いない。生存に最も必要なものは、最もつまらない日用品だということは、首肯される。そのことを、彼等夫婦は、罹災の経験によっても知ったのであろう。そして彼等の用心は、至って妥当なのであろう。
それにしても、彼等夫婦のそれら全体のことが、なんだか浅間しいのだ。そんなにして、最小限度にも生きたいのであろうか。
大火災の光景を、俺はむしろ痛快に思い起すのだ。見渡す限り、一面に火の海だった。火の海の中に、木立の幹や電柱が、高く峙って焔を吹いていた。片方は黒煙が濛々として、その末は白っぽく空に流れていた。その空には、火焔の反射を受けて銀色に光る飛行機が、縦横に飛び廻っていた。空も地も明るく、ただごうごうと唸っていた。壮絶だ。この中で死に或は負傷した人々にとっては、その死もその負傷も無意味で、しかも大難だったには違いない。然しその大火が壮絶たることには変りない。
こういう冷酷なことを俺に言わせるのは、あの荷車のがらがらいう音だ。殊に夜更けのその音だ。浅間しかった。情けなかった。
其後彼等夫婦は荷車を盗まれ、それからどこへか立ち去った。
彼等にも、そうだ、アルコール・ウイスキーでも飲ませてやるがいい。
友のその酒は、なるほど、味よく出来ていた。そして強かった。俺もだいぶ酔った。
「金儲けが目的じゃないんだ。なるべく沢山の人を酔わせてやりたいんだ。」と彼は言った。
彼自身、もうすっかり酔っていた。俺のところへ来る前にも、だいぶ飲んだらしい上に、更にぐいぐいひっかけたのだ。
「おい、これからビールを飲みに行こう。この近所に、ビールを飲ませる家があるだろう。案内しろよ。金は持ってる。」
酒の肴が何もなく、海苔と沢庵だけだったので、彼には少し気の毒だ。酒も無くなった。ビールは酔いざめの水だ、と彼は言う。
外に出ると、彼は全くふらふらしていた。酔っ払ったばかりでなく、此奴、まだ眩暈がしてるんだな、と俺は思った。匍い廻ってばかりいたのが、完全敗戦になって、突然立ち上る。眩暈もしよう、ふらつきもしよう、よろけもしよう。彼ばかりじゃないんだ。
俺は先に立って、猫捨坂を上りかけた。彼はあとから、ふーっと大きく息をした。またふーっと大きく息をした。
ひっそり静まったので、振り向くと、薄暗い中に彼は腹匍っていた。石炭灰に交って、厨芥や塵埃がうち捨ててある、その不潔な中に、彼は両手をついているのだ。
「おい、何してるんだ。」
「こいつ、ばかな坂だ。」
彼は起き上りかけて、またよろけて、こんどはコンクリート塀の方へ寄りかかった。そしてそこにまた屈みこんで、げーっと吐いた。背中をひくひくやってるらしく、次にまたげーっと吐いた。
俺は立って見ていた。見ているより外に仕方がなかった。手をつけると却っていけない。
暫くたった。
「大丈夫か。」
「なあに、ばかな坂だ。」
コンクリート塀に手を支えて、彼は徐々に上ってきた。坂を上りきると、意外にも元気にすたすた歩きだした。広い道に出て、それから電車通りへ、彼は迷わず歩いて行った。
俺は少しずつ後れ、彼が電車通りへ出る頃、黙って後に引き返した。これ以上彼とつきあうのは無意味だ。
猫捨坂で彼が嘔吐したことは、俺にふしぎな印象を与えた。嘔吐したのはあの男ではなく、誰か別な奴ではなかろうかと、一抹の疑念が持たれるのだ。いつだったか、この坂のコンクリート塀によりそって、誰かが佇んでいるので、じっと瞳をこらすと、その姿は消えてしまった。また、病院側の中段に、誰かが腰掛けているので、じっと瞳をこらすと、その姿は消えてしまった。忘れていたそういう記憶が、今になって蘇ってくる。確かに、この坂には、目に見えない人影がうろついている。そいつが嘔吐したに違いない。
坂の上に立つと、彼方の門灯の明りがかすかにさしてるだけで、御影石の敷石がほんのりと白み、コンクリート造りの崖とコンクリート造りの塀との間に、陰湿な気が深く淀んでいる。
俺は立ち止った。
すぐそこに、椎の木の茂みが闇の中に更に影を落してる中に、ぼんやりと何かの姿がある。誰だ。見つめると、姿は消えてしまった。
俺は眼を外らした。すると、またその姿が現われてきた。見えるのではなく、感ぜられるのだ。それをじっと見ると、姿は消える。眼を外らすと、また現われる。
俺は眼をよそへ向けたまま、其奴の方へ近づいていった。見られるのをきらってるようだから、見てはいけない。
「お前は誰だ。」
「お前は誰だ。」と同じことを言う。
「人に見られるのが、嫌なのか。」
「お前こそ、人に見られるのが嫌だろう。」と逆襲してくる。
「嫌なものか、俺の方をじっと見てみろ。」
「さっきから見ている。なぜ顔をそむけるのか。」
俺は言葉につまった。眼を向けたら、其奴は消え失せてしまうに違いない。俺がそっぽを向いてるのをいいことにして、俺の方をじっと見ているのだ。どうしてくれようか、と考えながら、俺はじりじりしてきて、眼を据えた。視線の真正面に、地下室の古板囲いがある。
焼け爛れた死体の堆積の中から、白骨の手が一本にゅっと突き出ている。白骨の足も一本にゅっと突き出ている。手はどこかへ伸び出そうとしてるようだ。足はどこかへ駆け出そうとしてるようだ。どこへか、その方向がちぐはぐだ。
「早く行け、早く行け。」
囁いたのは骸骨じゃない。すぐ側につっ立ってる姿だ。俺は其奴の方を見てやった。其奴も俺の方を見ている。眼が空洞だ、髑髏の眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]だけの眼だ。
「あ。」
母の眼じゃないか。俺の方へ無心に向けられていた母の眼じゃないか。
「お前は……。」
言いかけたとたん、其奴の姿は消えてしまった。俺は全身に冷い戦慄を覚えた。不吉な予感がした。母の死が感覚される。
異臭が漂ってくる。地下室内の死体の臭いだ。また、母の病室内の臭いだ。母。この俺を、この肉体を、胎内ではぐくみそして産んでくれた母が、どうしてあのような臭い汚物を垂れ流すのか。子宮癌、それはただ病気で、そのためだということは分っている。だが、あの腐爛は、情けない、悲しい。母……ばかりではない。俺の周囲のすべても異臭にまみれている。ここに行き倒れていた女を嗅いでみろ。捨て猫を嗅いでみろ。友人が、いや誰かが、嘔吐したものを嗅いでみろ。病室に寝起きしてる姉を嗅いでみろ。荷車をがらがら引っぱってた夫婦者を嗅いでみろ。俺があすこでキスした女の
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