猫捨坂
豊島与志雄

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(例)眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]
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 病院の裏手に、狭い急な坂がある。一方はコンクリートの塀で、坂上の塀外には数本の椎が深々と茂っている。他方は高い崖地で、コンクリートで築きあげられ、病院の研究室になっている。坂の中央に、幅二尺ほどの御影石が敷いてあり、そこが人間の通路で、両側には雑草が生え、石炭灰や塵芥がつもり、陶器の破片が散らばっている。全体が陰湿な感じだ。仔猫や病み猫などがしばしば捨てられている。坂の名は何というのか分らず、恐らく名もないのであろう。俗に猫捨坂と呼ぶ人もある。
 この猫捨坂の、病院側の一帯が、戦争中の空襲に焼けてしまった。本建築の病室の一廓が残っただけで、木造の附属建物や附近の民家など、すべて焼けてしまった。そのため、猫捨坂は多少とも明るくなる筈だったが、却って妖気が深まった。
 病院側の崖は、二段に築き上げられている。中段は四尺ばかりの広さで、坂の上方から平らに崖地をめぐり、そして上段は焼け跡の広場である。その中段の中ほどに、一種の洞窟があり、上段から見れば地下室となっている。鉄格子に磨硝子の扉が立てきってあるが、硝子は焼け壊れ、扉全体がぐらぐらだ。そこに焼けトタンを押し当て、針金で縛ってある。トタンの隙間から覗けば、洞窟内は、上方の出入口から明るみがさしている。金魚屋に見られるような四角な池があり、その中に、死体が堆積しているのだ。黒焦げに干乾びてる胴体、皮膚が焼け爛れてる頭蓋骨、ばらばらになってる肋骨、折れ曲ってる四肢、所々に、腕や脛がにゅっと突き立っている。アルコールのタンクに火がはいって、浮いていた多くの死体が、じりじり焼かれながらのたうった有様が、そこに再現してるのだ。異様な臭気が漂っている。別の室にも一つのタンクがあり、分厚な蓋がかぶさっている。恐らくそこには、アルコールの中に、幾つだかの死体がぶかぶか浮いてることであろう。
 その陰惨な光景を、誰かが覗き見て、噂が立った。わざわざ見に行く者もあった。然し、空襲に常時さらされてることとて、誰も我が身の明日のことさえ保証出来ず、病院の死体貯蔵場の焼け跡など、大した印象は与えなかった。
 終戦になってから、その死体貯蔵場には、外から覗けないように古板の囲いがされた。が逆に、附近の人々の頭には、その内部のことが蘇ってきた。もう覗き見も出来ないので、嘗ての噂が一層誇張して想像された。元来が人通りも少なかった猫捨坂は、夜分など、ますます通行人が少なくなった。
 坂下の或る門灯の光りが、ぼんやり見えてるきりで、坂全体が薄暗い。洞窟内の異様な臭気が、ふっと洩れてくるらしいこともある。ばかりでなく、焼け爛れた死体の髑髏や肋骨や腕や脛が、ふらりとさ迷い出てくるのだ。
 坂は急で、通路の御影石の敷石はすべすべである。或る晩、荒物屋のお上さんが、転んで、足首を挫いた。
 噂によれば、お上さんが坂を下りていると、どこからともなく声がしたという。
「早く行け、早く行け。」
 おや、と思うと、また声がした。
「早く行け、早く行け。」
 ぞーっとして、足を早めた。とたんに、転んだのである。
 また或る晩、坂上の近藤さんの女中が、転んで、肱と膝とをすりむいた。
 風呂屋からの帰りに、坂を上りかけると、声がしたのである。
「早く行け、早く行け。」
 はっと思って、坂を上ってゆくどころか、引っ返そうとした。とたんに、転んだのである。
 それらの声は、勿論、慴えた神経から来る幻覚であったろう。だが実は、俺にもそういう経験があるのだ。
 母がまた疼痛に苦しみだし、頓服の鎮痛剤があいにく無くなっていたので、夜分ながら、医者のところへ薬を貰いに行った。猫捨坂を通るのが一番の近道だ。俺は平気でその急坂を上っていった。そして薬剤を貰い、帰りにも平気で坂を下りかけた。ふと、あの洞窟めいた地下室の古板囲いに、眼をやった。その中を、以前、俺も覗き見たことがある。嫌な気がして、眼を外らすと、あの時の異臭に似たものが鼻の先に漂ってくる。強い鼻息をして、坂を半ば下りきった時、なんとなくほっとした気持ちの隙間に、聞えたようだった。
「早く行け、早く行け。」
 俺は坂を駆け下りた。別に恐怖は感じなかったが、醜怪なものがじかに肌に触れた感じだ。
 母は苦しそうなうめき声をたてていた。その腰のあたりを姉が撫でてやっている。
「早かったわね。お母さん、頓服がきましたよ。すぐあがりますか。」
 母は頷いて、意味のよく分らない声を出した。姉は薬をオブラートに包み、吸呑の水で服用さした。どこかで虫の声がしてる静かな夜だ。五分間ばかりたった頃、母はつぶっていた眼を開いた。
「こんどの薬、よく効くねえ。もうなおったよ。」
 そんなに早く効く筈はないと思われたが、姉も私も黙っていた。果してまた疼痛が来た。母は呻り始めた。その声が、やがて、次第に細くなり、消えてしまった。睡ったのであろうか。
 いつのまにか、母はぱっちり眼を開いて、俺の方へ瞳を据えていた。見ているという風はなく、全く無関心な眼差しだ。俺は何のたじろぎもなく、じっと見返した。母の眼は、意力も気力もないばかりか、死物のようだった。紗の覆いをした電球の光りが、ぼーっとかすんで、蚊やりの煙が一面に立ちこめてるかと思われた。その朦朧たる中で、母の眼は瞬きもせず俺の方に据えられている。ただ据えられてるだけで、何も見てはいない。眼玉にももう生気はなく、眼玉そのものまで溶けて無くなり、ただぽかっと眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]だけが口を開いている。あの地下室の髑髏の眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]だ。それがじっと俺の方に向いている。
「早く行け、早く行け。」
 声が蘇ってくる。あの地下室の異臭が、病室の臭気に重なり合う。母はいつも臭いおり物がして、おむつに垂れ流しであり、体にも既に死臭がある。それらの臭いがこもってる病室内の空気は、重々しくて異様だ。髑髏の眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]が俺の方へ口を開いている。
「早く行け、早く行け。」
 どこへ行けというのか。俺にだけ言ってる言葉ではあるまい。病苦の中にある母に向っても、看病疲れの姉に向っても、あのタンクの中に焼け爛れる死骸に向っても、それは言ってるのであろう。世の中に向って、世界中に向って、言ってるのであろう。
 姉の手が俺の膝をつっ突いた。それから姉は母の眼を指差した。
 その眼はまだ見開いたままである。
「どうしたんでしょう。」
 泣くような低い声だ。俺は沈思の中で身じろぎもしなかった。姉は母の方へ顔を寄せた。
「お母さん、どうしたの。」
 母は事もなく頷いて、そして眼を閉じた。瞼がすっかり落ち窪んで、よく合さらず、薄目を開いてるようである。頬骨が高くなり、鼻が尖り、唇もかすかに開いている。耳の後ろにはもう全然肉がない。
「眠りなすったようね。」
 姉はつぶやいて、太い息をつき、手枕で上体を横たえた。
 どうせ助からない病人とは分っていたが、数日前から急に悪化して、食物も殆んど喉を通らなくなった。始終むかむかして嘔気があり、臭いおり物には殆んど自覚がなく、時折、疼痛を訴える。その側に、姉は炊事以外は付ききりなのである。姉自身も痩せて、顔色がくすんできた。せめて半夜交代にでもしようと俺が言っても、姉は承知しない。最後まで自分で看病するつもりなのだ。おむつの世話は男には無理だと言う。病室内の異臭ももう身について、いっこう気にならないらしい。
 病室は四畳半。次の六畳に、姉の夫と二人の子供とが寝る。夫はその職場に時間外の居残り勤務までやって、一家の生活費を一人で稼ぎ出さねばならない。母が病臥して以来、彼の体にも無理がたたって、めっきり老けてきた。二階にも一家族、貧しい人々がぎっしりつまっている。至るところ人間臭い筈だが、体臭よりむしろ埃臭く垢臭いのだ。泣くのは子供たちだけで、大人たちは心から笑うことさえもない。
 ただ一度、姉が泣いてるのを俺は見た。母のおむつを洗ってるところへ、近所のお上さんが来て、大声で言った。
「たいへんですねえ。大人の赤ちゃんのお世話は、骨が折れるでしょうね。」
 そのあとで姉は、縁先でしくしく泣いていた。お座なりの同情にセンチになったのではあるまい。あるいは皮肉を口惜しがったのでもあるまい。母がまるで赤ん坊のように垂れ流しになったことが、悲しかったのであろう。しくしく泣いていて、どうにも涙が止らない様子だった。
「早く行け、早く行け。」
 むしろ世界中がどっかへ行っちまえ。

 その猫捨坂にも、体を休めてる女がいた。縞目も分らぬぼろぼろな上衣の、襟や袖口をくつろげ、下半身は黒いモンペできちっとくるみ、素足に片方だけ下駄をはき、片方の下駄は足先にひっくり返り、片腕を枕につっ伏しがちに、粗らな草の地面に寝そべっている。皮膚は泥や埃にまみれ、髪は赤茶けて乱れている。死んでるのかとも思われるが、かすかに息はしているらしい。いつまでもそのまま動かない。行き倒れて、眠りこんでしまったのであろうか。初秋の陽光が足先にだけ当っている。
 その日当りの中に、この坂でよく見かけるような仔猫が一匹、黒ぶちの毛並も薄い痩せほうけた体を、よたよたと動かして、女の下駄のあたりを嗅いでいた。鳴いているようだが、その声もか細くて殆んど聞えない。仔猫は下駄のあたりから、女の足先の方まで辿りつき、また暫く嗅ぎまわり、それから草の中にぐったり顔を伏せてしまった。
 それだけのことを、俺は正午すぎに見た。夕方、ふと気にかかるので行ってみると、もう女も仔猫もいず、坂は薄ら寒く暮れかけていた。地下室を囲った古板が、暮色よりも一層黒ずんで見えた。
 その古板に、あの時は三日月の淡い光りがさしていた。あの女とただ一度のキスをした晩のことだ。
 屋台店でアルコール焼酎を飲んで、少しく酔って、帰りかけると、電車から降りてきた彼女に逢った。映画を見に行った帰りだというようなことから、話をするともなく、連れ立つともなく、いっしょに歩いた。果物類の雑貨を商ってる店の娘だ。実の娘ではなく、田舎の親戚から手伝いに来てる者で、年はだいぶ取ってるらしい。
 女の方から先に立って、事もなげに猫捨坂へ向うのである。二人だから怖くないと思ってるのであろうか。俺の方は勿論怖くなんかない。風のある温い晩だった。
 坂の敷石は、二人並んでは歩けない。女は先に立って下り始めた。足元が薄暗くて危なっかしい。大した風でもないが、椎の木の茂みにさーっと音を立てる。
 坂の中途まで行った時、坂下の先方で犬が吠えた。その声はまもなく止んだ。女は立ち止ってしまった。俺は敷石を離れて草の中に出た。肩を並べると、女も歩きだしたが、ぐんぐん俺の方へ体を押し寄せてくる。やがて女も、敷石を離れて、俺の方の草の中にはいってくる。女の体とコンクリート塀との間に俺は挾まれて、歩くことも出来ない。女の腕をかかえると、女は腋をせばめて俺の手をしめつけた。
 ふざけた奴だ。その気なら征服してやれと、ばかな敵愾心を俺は起した。立ち止って、あいてる方の手で女の肩を抱くと、女は俺の胸に顔を埋めてくる。それを抱きかかえるようにして、顔を寄せると、女も顔を挙げた。ゆっくりした冷たいキスだった。ゆっくり時間がかかったのは、女が離れなかったからだ。
 そのキスの間、俺は女の肩越しに、向うの地下室の古板囲いを眺めていた。そこに、淡い三日月の光りがさしていたのである。その光りが、そしてその奥の地下室が、俺たちの有様を嘲笑ってるようだ。俺はなにか胸がむかついてきた。
 俺は女を静かに押しやり、黙って歩きだした。坂を下りきって、女と別れた。
「またね。」と女は言った。
 丸顔の肥った女だが、その頬は血色がよいだけで、林檎のよ
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