うだ。どこへか、その方向がちぐはぐだ。
「早く行け、早く行け。」
囁いたのは骸骨じゃない。すぐ側につっ立ってる姿だ。俺は其奴の方を見てやった。其奴も俺の方を見ている。眼が空洞だ、髑髏の眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]だけの眼だ。
「あ。」
母の眼じゃないか。俺の方へ無心に向けられていた母の眼じゃないか。
「お前は……。」
言いかけたとたん、其奴の姿は消えてしまった。俺は全身に冷い戦慄を覚えた。不吉な予感がした。母の死が感覚される。
異臭が漂ってくる。地下室内の死体の臭いだ。また、母の病室内の臭いだ。母。この俺を、この肉体を、胎内ではぐくみそして産んでくれた母が、どうしてあのような臭い汚物を垂れ流すのか。子宮癌、それはただ病気で、そのためだということは分っている。だが、あの腐爛は、情けない、悲しい。母……ばかりではない。俺の周囲のすべても異臭にまみれている。ここに行き倒れていた女を嗅いでみろ。捨て猫を嗅いでみろ。友人が、いや誰かが、嘔吐したものを嗅いでみろ。病室に寝起きしてる姉を嗅いでみろ。荷車をがらがら引っぱってた夫婦者を嗅いでみろ。俺があすこでキスした女の
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