から、女の足先の方まで辿りつき、また暫く嗅ぎまわり、それから草の中にぐったり顔を伏せてしまった。
それだけのことを、俺は正午すぎに見た。夕方、ふと気にかかるので行ってみると、もう女も仔猫もいず、坂は薄ら寒く暮れかけていた。地下室を囲った古板が、暮色よりも一層黒ずんで見えた。
その古板に、あの時は三日月の淡い光りがさしていた。あの女とただ一度のキスをした晩のことだ。
屋台店でアルコール焼酎を飲んで、少しく酔って、帰りかけると、電車から降りてきた彼女に逢った。映画を見に行った帰りだというようなことから、話をするともなく、連れ立つともなく、いっしょに歩いた。果物類の雑貨を商ってる店の娘だ。実の娘ではなく、田舎の親戚から手伝いに来てる者で、年はだいぶ取ってるらしい。
女の方から先に立って、事もなげに猫捨坂へ向うのである。二人だから怖くないと思ってるのであろうか。俺の方は勿論怖くなんかない。風のある温い晩だった。
坂の敷石は、二人並んでは歩けない。女は先に立って下り始めた。足元が薄暗くて危なっかしい。大した風でもないが、椎の木の茂みにさーっと音を立てる。
坂の中途まで行った時、坂下の先方で犬が吠えた。その声はまもなく止んだ。女は立ち止ってしまった。俺は敷石を離れて草の中に出た。肩を並べると、女も歩きだしたが、ぐんぐん俺の方へ体を押し寄せてくる。やがて女も、敷石を離れて、俺の方の草の中にはいってくる。女の体とコンクリート塀との間に俺は挾まれて、歩くことも出来ない。女の腕をかかえると、女は腋をせばめて俺の手をしめつけた。
ふざけた奴だ。その気なら征服してやれと、ばかな敵愾心を俺は起した。立ち止って、あいてる方の手で女の肩を抱くと、女は俺の胸に顔を埋めてくる。それを抱きかかえるようにして、顔を寄せると、女も顔を挙げた。ゆっくりした冷たいキスだった。ゆっくり時間がかかったのは、女が離れなかったからだ。
そのキスの間、俺は女の肩越しに、向うの地下室の古板囲いを眺めていた。そこに、淡い三日月の光りがさしていたのである。その光りが、そしてその奥の地下室が、俺たちの有様を嘲笑ってるようだ。俺はなにか胸がむかついてきた。
俺は女を静かに押しやり、黙って歩きだした。坂を下りきって、女と別れた。
「またね。」と女は言った。
丸顔の肥った女だが、その頬は血色がよいだけで、林檎のような肌ではなく、蜜柑のような肌だ。またね、それが水菓子屋の娘の言う言葉なのか。俺は彼女と別れてから、ぺっぺっと唾を吐いた。
それきり、もう彼女とは逢わないことにしている。何が征服だ。彼女から征服されたに過ぎないではないか。
彼女がいなくなっても、永久にいなくなっても、俺は何等の痛痒も感じない。だが、行き倒れみたいな女が、その足先の捨て仔猫といっしょに、いつしか姿を消してしまったことについては、俺と全く無関係なことではあるが、心にちょっと冷たい風が吹く思いだ。この思いを、地下室は嘲笑いはしないだろう。
地下室の中の死体は、あの焼け爛れた死体も、アルコールの中にぶかぶか浮いてるだろう死体も、病院に買い取られた無縁のものではあっても、嘗ては誰かの血縁の者であった筈だ。その血縁のつながりが、つまり人間のつながりが、深夜になって囁くのだ。
「早く行け、早く行け。」
怪談ではない。悲しい遣る瀬ない心の囁きなのだ。いずこかへ姿を消した行き倒れの女も、同様に囁く。
「早く行け、早く行け。」
あの仔猫でさえも、同様に俺に囁く。
どこへ行ったらよいのか。――俺は死にかけてる母のところへ戻っていった。姉が万事みとってくれるので、俺はただ側についておればよい。
母は疼痛を訴えることが少なくなった。医者は逆に、危機が近づいたと言う。もう苦悩の力さえ失ったのであろうか。痛々しくて見ておられない気持ちだ。
見舞客もすべて、玄関の三畳での応対だけで帰って貰う。この三畳は、俺たち一家と二階の一家との共通のもので、いわば両家の応接室だ。友人が来ると俺はそこで対談する。
中学時代の旧友が、或る晩、一瓶をさげて訪れて来た。玄関の三畳で飲んだ。その酒が彼は自慢なのだ。屋台店などに氾濫しているアルコール焼酎よりも遙かに上等で、アルコール・ウイスキーだと自称する。ちょっと色をつけ、ちょっと味をつけてある。彼自身の考案なのだ。これを飲み屋に卸せば可なりの利益になる。大量に生産して、莫大に儲けるつもりでいる。原料はいくらでも手にはいる、一緒にやらないか、と彼は俺に勧めた。
「非合法な仕事でもなんでも、構うものか。うまい酒を同胞に供給してやるんだ。そして酔っ払わしてやるんだ。」
彼は戦時中に召集されて、関東平野をあちこち歩かせられ、終戦後の復員で戻って来たのである。
彼の話によれば、兵隊として
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