かで虫の声がしてる静かな夜だ。五分間ばかりたった頃、母はつぶっていた眼を開いた。
「こんどの薬、よく効くねえ。もうなおったよ。」
そんなに早く効く筈はないと思われたが、姉も私も黙っていた。果してまた疼痛が来た。母は呻り始めた。その声が、やがて、次第に細くなり、消えてしまった。睡ったのであろうか。
いつのまにか、母はぱっちり眼を開いて、俺の方へ瞳を据えていた。見ているという風はなく、全く無関心な眼差しだ。俺は何のたじろぎもなく、じっと見返した。母の眼は、意力も気力もないばかりか、死物のようだった。紗の覆いをした電球の光りが、ぼーっとかすんで、蚊やりの煙が一面に立ちこめてるかと思われた。その朦朧たる中で、母の眼は瞬きもせず俺の方に据えられている。ただ据えられてるだけで、何も見てはいない。眼玉にももう生気はなく、眼玉そのものまで溶けて無くなり、ただぽかっと眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]だけが口を開いている。あの地下室の髑髏の眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]だ。それがじっと俺の方に向いている。
「早く行け、早く行け。」
声が蘇ってくる。あの地下室の異臭が、病室の臭気に重なり合う。母はいつも臭いおり物がして、おむつに垂れ流しであり、体にも既に死臭がある。それらの臭いがこもってる病室内の空気は、重々しくて異様だ。髑髏の眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]が俺の方へ口を開いている。
「早く行け、早く行け。」
どこへ行けというのか。俺にだけ言ってる言葉ではあるまい。病苦の中にある母に向っても、看病疲れの姉に向っても、あのタンクの中に焼け爛れる死骸に向っても、それは言ってるのであろう。世の中に向って、世界中に向って、言ってるのであろう。
姉の手が俺の膝をつっ突いた。それから姉は母の眼を指差した。
その眼はまだ見開いたままである。
「どうしたんでしょう。」
泣くような低い声だ。俺は沈思の中で身じろぎもしなかった。姉は母の方へ顔を寄せた。
「お母さん、どうしたの。」
母は事もなく頷いて、そして眼を閉じた。瞼がすっかり落ち窪んで、よく合さらず、薄目を開いてるようである。頬骨が高くなり、鼻が尖り、唇もかすかに開いている。耳の後ろにはもう全然肉がない。
「眠りなすったようね。」
姉はつぶやいて、太い息をつき、手枕で上体を横たえた。
どうせ助からない病人とは分っていたが、数日前から急に悪化して、食物も殆んど喉を通らなくなった。始終むかむかして嘔気があり、臭いおり物には殆んど自覚がなく、時折、疼痛を訴える。その側に、姉は炊事以外は付ききりなのである。姉自身も痩せて、顔色がくすんできた。せめて半夜交代にでもしようと俺が言っても、姉は承知しない。最後まで自分で看病するつもりなのだ。おむつの世話は男には無理だと言う。病室内の異臭ももう身について、いっこう気にならないらしい。
病室は四畳半。次の六畳に、姉の夫と二人の子供とが寝る。夫はその職場に時間外の居残り勤務までやって、一家の生活費を一人で稼ぎ出さねばならない。母が病臥して以来、彼の体にも無理がたたって、めっきり老けてきた。二階にも一家族、貧しい人々がぎっしりつまっている。至るところ人間臭い筈だが、体臭よりむしろ埃臭く垢臭いのだ。泣くのは子供たちだけで、大人たちは心から笑うことさえもない。
ただ一度、姉が泣いてるのを俺は見た。母のおむつを洗ってるところへ、近所のお上さんが来て、大声で言った。
「たいへんですねえ。大人の赤ちゃんのお世話は、骨が折れるでしょうね。」
そのあとで姉は、縁先でしくしく泣いていた。お座なりの同情にセンチになったのではあるまい。あるいは皮肉を口惜しがったのでもあるまい。母がまるで赤ん坊のように垂れ流しになったことが、悲しかったのであろう。しくしく泣いていて、どうにも涙が止らない様子だった。
「早く行け、早く行け。」
むしろ世界中がどっかへ行っちまえ。
その猫捨坂にも、体を休めてる女がいた。縞目も分らぬぼろぼろな上衣の、襟や袖口をくつろげ、下半身は黒いモンペできちっとくるみ、素足に片方だけ下駄をはき、片方の下駄は足先にひっくり返り、片腕を枕につっ伏しがちに、粗らな草の地面に寝そべっている。皮膚は泥や埃にまみれ、髪は赤茶けて乱れている。死んでるのかとも思われるが、かすかに息はしているらしい。いつまでもそのまま動かない。行き倒れて、眠りこんでしまったのであろうか。初秋の陽光が足先にだけ当っている。
その日当りの中に、この坂でよく見かけるような仔猫が一匹、黒ぶちの毛並も薄い痩せほうけた体を、よたよたと動かして、女の下駄のあたりを嗅いでいた。鳴いているようだが、その声もか細くて殆んど聞えない。仔猫は下駄のあたり
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