の主な仕事は、ただ地面を働い歩くことだったらしい。出来るだけ体を地面に低くつけ、腕と膝とで、出来るだけ早く匍い進み、背負った爆薬と共に、仮想の敵戦車にぶつかるのだ。出来る限り低く、出来る限り早く、匍ってゆけ匍ってゆけ。それが毎日の仕事だ。
「戦争が終って立ち上ると、俺は眩暈がした。」
「酔っ払った時の眩暈と、同じか。」
「いや、そんなもんじゃない。酔っ払った時は、外の世界がぐるぐる廻る。俺たちのは、頭の中がぐるぐる廻った。」
俺たち、と彼は複数で言った。だが、それは兵隊だけに限らず、更に大きな複数ともなろう。大抵の者が、何等かの意味で、地面を匍い歩いていたのだ。立ち上って眩暈がしたのは、まだいい方で、多くの者は、腹匍いのままぐったりのびてしまった。
そんなのが、上野駅附近に寄り集まって、うようよしている。風に吹き寄せられたのでもない。箒で掃き寄せられたのでもない。腹匍い腹匍い、行きづまって、自然と落ち合ったのだ。そして芥溜のようにつもって、むんむん温気を立てている。
アルコールを振りまいてやるがいい。アルコール焼酎でもよろしい。アルコール・ウイスキーでもよろしい。俺は友のアルコール・ウイスキーに賛成だった。
「協力してやってくれるか。」
「も少し待て。考えてみる。」
戦時中、俺は或る軍需会社に勤めていたが、それが終戦後、解散になって、その時の手当で、姉一家の生活にもさして迷惑をかけず、小遣に窮することも大してないが、このままではやがて切羽つまることは明かだ。何とかしなければならない。然し、どこかに勤めるのは嫌だ。自分の仕事、そう言い切れるようなものが欲しい。さりとて、アルコール・ウイスキーの密造も考えものだ。金は欲しいが、金に執着しちゃあいけない。執着はすべて浅間しい。
その浅間しさを、俺は空襲中にいろいろ見せられた。
隣家の一室に、焼け出された夫婦者が身を寄せていた。荷車を一つ持っていた。空襲警報が鳴ると、その荷車にごたごた物を積んで、三百メートルばかり先、焼け跡の中の防空壕まで、避難する。どんな深夜でもそうだ。警報が聞えるとすぐ、彼等は飛び起きて、荷車に物を積み、しばし様子を窺ってから、車を引きだす。男が柄を引き、女が後押しをして、がらがら、がらがら、深夜の巷に音を立てて、焼け跡へ向う。警報が解除になると暫くたってから、がらがらと、こんどは少しゆっくり戻って来る。そして車の荷を解き、また寝てしまう。車の荷は、つまらないものばかりだ。布団と毛布、鍋釜、皿小鉢の類、小さな行李、米が少量、風呂敷包みなど、かねて用意してあるものらしい。
焼け跡が、そしてそこの防空壕が、果して安全なのであろうか。もっとも、立ち並んでる小さな人家は、焼夷弾に対しては、薪を置き並べてるのに等しく、そこに居ることは、火の下の薪の中に居るようなものである。然し、他人の家に身を寄せてるからには、自分たちだけ逃げ出さずに、そこの家人と協力して、防火や荷物搬出や避難を共にすべきであろう。だが、彼等夫婦は、他を一切顧ることなく、がらがら事を引いて逃げ出すのだ。
車の荷は、つまらないものだが、さし当っての生存必需品には違いない。生存に最も必要なものは、最もつまらない日用品だということは、首肯される。そのことを、彼等夫婦は、罹災の経験によっても知ったのであろう。そして彼等の用心は、至って妥当なのであろう。
それにしても、彼等夫婦のそれら全体のことが、なんだか浅間しいのだ。そんなにして、最小限度にも生きたいのであろうか。
大火災の光景を、俺はむしろ痛快に思い起すのだ。見渡す限り、一面に火の海だった。火の海の中に、木立の幹や電柱が、高く峙って焔を吹いていた。片方は黒煙が濛々として、その末は白っぽく空に流れていた。その空には、火焔の反射を受けて銀色に光る飛行機が、縦横に飛び廻っていた。空も地も明るく、ただごうごうと唸っていた。壮絶だ。この中で死に或は負傷した人々にとっては、その死もその負傷も無意味で、しかも大難だったには違いない。然しその大火が壮絶たることには変りない。
こういう冷酷なことを俺に言わせるのは、あの荷車のがらがらいう音だ。殊に夜更けのその音だ。浅間しかった。情けなかった。
其後彼等夫婦は荷車を盗まれ、それからどこへか立ち去った。
彼等にも、そうだ、アルコール・ウイスキーでも飲ませてやるがいい。
友のその酒は、なるほど、味よく出来ていた。そして強かった。俺もだいぶ酔った。
「金儲けが目的じゃないんだ。なるべく沢山の人を酔わせてやりたいんだ。」と彼は言った。
彼自身、もうすっかり酔っていた。俺のところへ来る前にも、だいぶ飲んだらしい上に、更にぐいぐいひっかけたのだ。
「おい、これからビールを飲みに行こう。この近所に、ビールを飲ませる家
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング