があるだろう。案内しろよ。金は持ってる。」
酒の肴が何もなく、海苔と沢庵だけだったので、彼には少し気の毒だ。酒も無くなった。ビールは酔いざめの水だ、と彼は言う。
外に出ると、彼は全くふらふらしていた。酔っ払ったばかりでなく、此奴、まだ眩暈がしてるんだな、と俺は思った。匍い廻ってばかりいたのが、完全敗戦になって、突然立ち上る。眩暈もしよう、ふらつきもしよう、よろけもしよう。彼ばかりじゃないんだ。
俺は先に立って、猫捨坂を上りかけた。彼はあとから、ふーっと大きく息をした。またふーっと大きく息をした。
ひっそり静まったので、振り向くと、薄暗い中に彼は腹匍っていた。石炭灰に交って、厨芥や塵埃がうち捨ててある、その不潔な中に、彼は両手をついているのだ。
「おい、何してるんだ。」
「こいつ、ばかな坂だ。」
彼は起き上りかけて、またよろけて、こんどはコンクリート塀の方へ寄りかかった。そしてそこにまた屈みこんで、げーっと吐いた。背中をひくひくやってるらしく、次にまたげーっと吐いた。
俺は立って見ていた。見ているより外に仕方がなかった。手をつけると却っていけない。
暫くたった。
「大丈夫か。」
「なあに、ばかな坂だ。」
コンクリート塀に手を支えて、彼は徐々に上ってきた。坂を上りきると、意外にも元気にすたすた歩きだした。広い道に出て、それから電車通りへ、彼は迷わず歩いて行った。
俺は少しずつ後れ、彼が電車通りへ出る頃、黙って後に引き返した。これ以上彼とつきあうのは無意味だ。
猫捨坂で彼が嘔吐したことは、俺にふしぎな印象を与えた。嘔吐したのはあの男ではなく、誰か別な奴ではなかろうかと、一抹の疑念が持たれるのだ。いつだったか、この坂のコンクリート塀によりそって、誰かが佇んでいるので、じっと瞳をこらすと、その姿は消えてしまった。また、病院側の中段に、誰かが腰掛けているので、じっと瞳をこらすと、その姿は消えてしまった。忘れていたそういう記憶が、今になって蘇ってくる。確かに、この坂には、目に見えない人影がうろついている。そいつが嘔吐したに違いない。
坂の上に立つと、彼方の門灯の明りがかすかにさしてるだけで、御影石の敷石がほんのりと白み、コンクリート造りの崖とコンクリート造りの塀との間に、陰湿な気が深く淀んでいる。
俺は立ち止った。
すぐそこに、椎の木の茂みが闇の中に更に影を落してる中に、ぼんやりと何かの姿がある。誰だ。見つめると、姿は消えてしまった。
俺は眼を外らした。すると、またその姿が現われてきた。見えるのではなく、感ぜられるのだ。それをじっと見ると、姿は消える。眼を外らすと、また現われる。
俺は眼をよそへ向けたまま、其奴の方へ近づいていった。見られるのをきらってるようだから、見てはいけない。
「お前は誰だ。」
「お前は誰だ。」と同じことを言う。
「人に見られるのが、嫌なのか。」
「お前こそ、人に見られるのが嫌だろう。」と逆襲してくる。
「嫌なものか、俺の方をじっと見てみろ。」
「さっきから見ている。なぜ顔をそむけるのか。」
俺は言葉につまった。眼を向けたら、其奴は消え失せてしまうに違いない。俺がそっぽを向いてるのをいいことにして、俺の方をじっと見ているのだ。どうしてくれようか、と考えながら、俺はじりじりしてきて、眼を据えた。視線の真正面に、地下室の古板囲いがある。
焼け爛れた死体の堆積の中から、白骨の手が一本にゅっと突き出ている。白骨の足も一本にゅっと突き出ている。手はどこかへ伸び出そうとしてるようだ。足はどこかへ駆け出そうとしてるようだ。どこへか、その方向がちぐはぐだ。
「早く行け、早く行け。」
囁いたのは骸骨じゃない。すぐ側につっ立ってる姿だ。俺は其奴の方を見てやった。其奴も俺の方を見ている。眼が空洞だ、髑髏の眼※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]だけの眼だ。
「あ。」
母の眼じゃないか。俺の方へ無心に向けられていた母の眼じゃないか。
「お前は……。」
言いかけたとたん、其奴の姿は消えてしまった。俺は全身に冷い戦慄を覚えた。不吉な予感がした。母の死が感覚される。
異臭が漂ってくる。地下室内の死体の臭いだ。また、母の病室内の臭いだ。母。この俺を、この肉体を、胎内ではぐくみそして産んでくれた母が、どうしてあのような臭い汚物を垂れ流すのか。子宮癌、それはただ病気で、そのためだということは分っている。だが、あの腐爛は、情けない、悲しい。母……ばかりではない。俺の周囲のすべても異臭にまみれている。ここに行き倒れていた女を嗅いでみろ。捨て猫を嗅いでみろ。友人が、いや誰かが、嘔吐したものを嗅いでみろ。病室に寝起きしてる姉を嗅いでみろ。荷車をがらがら引っぱってた夫婦者を嗅いでみろ。俺があすこでキスした女の
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング