と朝から雪が降り出した。村瀬にきき合せようと思ったが、彼の番地を記憶していないので、無駄足をしても大した損ではないと思って出かけた。
 雪は小降りではあったが、夜になっても止まなかった。往来は泥濘が深く、屋根や木の枝は白くなっていた。襟巻を用いない癖の私は、マントの襟に顔を埋めて道を急いだ。
「まさか今日は来まいと思っていたよ。」と坂口は云って笑いながら、快く私を迎えてくれた。
「却って風流でね。」と私は答えた。
 其晩、私はどうしたのか敗け続けた。
「今日は君どうかしてるんじゃないか。」と坂口は云った。
 自分では気がつかなかったが、確かに私は何処か落付かないでいたと見える。
 十二時を打つと例の通り立ち上った。
 傘の上にしとしとと音を立てて降る雪の中を歩いていると、夢の中に居るような気がしてきた。少しの風もなく、重い空気が澱んでいた。村瀬は女を連れてわざわざ市内電車で遠廻りをして駅に来てる筈だった。
 S――駅に着いて、暗い階段を下りると、果して村瀬は私を待ち受けていた。私はその側へ寄って行った。
「君あれですよ。」と彼は私に小声で囁いた。向うの柱の影に、コートの中に肩をすくめた束髪の女が立っていた。私達が話してるのを見ると、一寸頭を下げて微笑みかけた。村瀬は手を上げて相図をしながら頭を振った。私の眼の中には、女の眼と口とが馬鹿に大きく残った。
 例の男は来ていなかった。私達は失望した。それでも電車を一つやり過して待ってみた。まだ来なかった。「今日は雪だから来ないのかな。」とも思った。それでも一台電車をやり過した。足の先が凍るように冷たくなって来た。時々待合所の中へはいって足先を温めた。火鉢の火はいつもより多かった。女は時々私達の方を顧みた。
 やがて階段の所に足音がした。私ははっと思った。それは殆んど直覚だった。あの男がやって来たのだ。ラクダの襟巻をして、手に洋傘を携え、足駄をはいていた。雪の夜には別に不思議でもないが、その洋傘と足駄とが私には異様に感じられた。
 彼は私達の方へは眼もくれず、真直に待合所の中へはいって行って、火鉢の上に足をかざした。それから煙草を一本取出して火をつけながら、何やらじっと考え込んでいるらしかった。私達の方をちらと顧みたが、またそのまま眼を伏せてしまった。然し私は彼の後姿で、彼の心は絶えず私達の方へ向けられてることを感じた。
 
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