出した。そして私はふと立ち止って、顧みた彼の顔をじっと眺めた。
「随分度々君には此処で逢いましたね。」と私は云った。
「そうでしたね。」と彼は答えたが何か他のことを考えているらしかった。
「なぜ君はもっと早く僕に言葉をかけなかったのです。」
「え!」と云って彼は眼を輝かした。「僕も君にそう云おうと思ってた所です。それではお互いっこだ。」
「そうですか。然し随分長い間互に話しかけたく思いながら妙な遠慮をして、擽ったいような思いをしたものですね。」
「擽ったい……なるほど君はいい言葉を使いますね。文学でもやるんですか。」
「いや文学の方は生噛りです。」
それから暫く黙っていたが、彼は声を低くして憚るように云った。
「ねえ君、これから此処に待ち合してる者で、一度顔を見たことがある者には、誰にでも話しかけてみようじゃありませんか。」
私は眼を輝かした。
「然し二度此処で逢うような人があるでしょうか。」
「あるですよ屹度。現にあの鳥打帽に洋服の人ですね。」と彼は向うに立ってる男を指さした。「あの人にも僕は一度此処で出逢ったことがあるんです。」
「それは面白い。やりましょう。」
「然し僕はどうも一人では何だから、二人の時にしようじゃないですか。」
「ええ僕もちと臆病の方ですから、それの方がいいですね。」
それで私達は種々の手筈を定めた。日曜は客に妨げられることが多いし、月曜は私には商会へ行く日で用が多いし、土曜は彼の方で何か差支えがあるので、火曜と金曜と一週に二回は必ず出かけて来ることにした。そして、十二時が打つのを相図に停車場へ来ること、よく乗客の顔を見ておくこと、二度逢った者には必ず何か話しかけること(女をも含めて)、そしてそれは順番にやること。
「では一つあの鳥打帽の人にやってみませんか。」と私は云った。
「やりましょうか。」
丁度その時、電車が来たので、その晩はそのままになってしまった。
実にそれは不思議な面白いことだった。一度顔を見た者にはすぐに話しかけてみる、名も知らず身分も知らない者と打ち開けた談笑を交わす、そしてまた互にふいと別れてしまう、それがうまくいったら世の中の有様ががらりと変ってしまいそうに思えた。陰険だとか奸黠だとかいう言葉は不用になって、至る所バッカスのお祭りだ。
私は次の火曜を待ちわびた。
火曜の晩、坂口を訪れて碁を囲んでいると、私の
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