もしまわれていたし、何処も起きてる家はなかった。幸い其処の角にあるカフェーの表が開いていたので、その中にはいった。二階の室で四五人の客が大声に何か話し合ってるのが聞えたので私達は安心してゆっくり卓子につくことが出来た。そして麦酒をのみ、料理を食って、後にはウイスキーのコップまで据えさした。
 私達は純白のテーブルクロースの上に両肱をついて、互にまじまじと顔を見合った。
「お互に名前も知らないでは変ですから、一つ名乗りをしようじゃありませんか。」そう私はいった。空腹だったので、いくらかもう酔っていた。
「やあ、すっかり名乗りを忘れていましたね。」と彼も云った。
 向うに居た給仕女《ウェートレス》が変な顔をして私達の方を眺めた。
 彼は村瀬という姓だった。私も自分の名前を知らした。
「ええ松本君だって、聞いたような名前ですね。」そう云って彼は濃い眉根を寄せて考えていたが、「あそう。君ではないですか、そら、梅吉といっていた妓の何は……。」
 私は驚いて彼の顔を見守った。
「やあ、やはりそうですね。君のことなら聞いたことがありますよ。君達のことをひどく心配していた小さいのを私もちょいと知っていましたから。」
「へえ、君もよくあの辺に行くんですか。」
「いやこの頃は面白くないからさっぱり行きません。体よく振られたような形になって無情を感じたわけですよ。」
「そして私のように、S――まで都落ちですか。」
「ははは、都落ちとはうまく云ったものですね。」
 そして私達はまた麦酒のコップを挙げた。
 そのカフェーを出たのは一時すぎだった。私は彼に別れて、淋しい池のふちを通って自分の家に帰った。
 私はその晩の出来事が妙に嬉しくなった。ふいに一人の知己を得たような気がした。「なぜもっと早くあの男に話しかけなかったろう。」そう思うとまた急に彼に逢いたくなった。そして、少し危ぶみながらも彼に逢えるかと思って、その翌晩また坂口を訪れ、十二時が打つといい加減に碁の勝負をきり上げて停車場へ帰ってきた。
 私が階段を下りてゆくと、「やあ!」と云って声をかける者があった。村瀬だった。
「僕は君が屹度今晩も来ると思って待っていたんです。」と彼は云った。「お蔭で電車を一つやり過してしまった。」
「そうですか。僕も君が来るような気がしたので、わざわざ出かけて来たんです。」
 私達はまた歩廊の上を並んで歩き
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