神子は香を焚いた。
暫く沈黙のあとで、彼女は向き返って言った。
「眼に見えるものを信じなされてはいけませぬ。心に見えるものを信じなされませ。」
澄んで冴えた美声だった。一息おいて、彼女はまた繰り返した。
「眼に見えるものを信じなされてはいけませぬ。心に見えるものを信じなされませ。」
彼女はまた香を焚いた。口から外へ殆んど洩れない声で何か誦した。それが非常に長い時間だと思える頃、卓上に置かれてる如意を取って向き返り、千枝子の前に来た。
「初めてのお方のようでありますが、如意を預かれますか。」
「はい。」と千枝子は躊躇なく答えた。
そして彼女は如意を受取り、それを礼拝して、神子に返した。神子は頷いた。――私があとで聞いたところによれば、この如意拝受のことを千枝子は知らなかったが、とっさに、ごく自然にやってのけたそうである。
神子は秦の前に来た。秦は千枝子のしぐさを真似て、その通りにやった。ただ、拝受の折に、鋭くその品物を見調べた。
神子は席に戻って、読経をはじめた。もう澄んだ美声ではなく、力のこもった太い声で、それが次第に女声から男声へと変っていった。その読経は、経典なしの真の
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