年月を過してしまった。――その美春さんが、夏の頃から、一種の幻覚に襲われはじめたらしい。夜中にふと気がついてみると、或は、障子を細目にあけて、或は襖を細目にあけて、誰かがじっと覗いているのである。驚いて、蒲団の上に身を起すと、障子や襖はもうしまっていて、誰もいない。そんなことがしばしば起って、遂には、じっと覗きこんでくるその顔が、蚊帳のところまでやって来た。蚊帳がこちらへふくらむほど、その怪しい顔がのりだしてくる。もう身を起すことも出来なくて、蒲団をかぶり、息をひそめていると、いつしか顔は消えてしまう。その顔立ははっきり分らないが、確かに誰か人の顔なのである。彼女は夜灯をつけず真暗な中に寝る習慣だったが、真暗な中にありありと、その人の顔だけは分り、それが消えてしまったあとの暗闇は、いっそう恐ろしかった。後にはそれが毎夜のようになって、おちおち眠られず、次第に心気が衰えてきた。
主人の西浦辰吉夫妻も、美春のことを心配しだした。そして辰吉の懇意な者に、照顕さまを信仰してるのがいて、一度ためしに祈祷して貰ったらどうかと勧めた。照顕さまというのは、新しく出現したもので、祈祷の秘義は仏教に依る
前へ
次へ
全25ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング