非情の愛
豊島与志雄

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(例)※[#「火+喋のつくり」、第3水準1−87−56]
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 椰子の実を灯籠風にくりぬいたのへぽつりと灯火をつけてる、小さな酒場「五郎」に名物が一つ出来た。名物といっても、ただ普通の川蟹で、しかも品切れのことが多い。千葉県下の河川で獲れるのだが、数量は少い。樽の底に水をひたひたに注ぎ、飯粒をばらまき、そこに飼っておくと、いつまでも元気よく生きている。それを、※[#「火+喋のつくり」、第3水準1−87−56]でて食べるのである。この川蟹が品切れになっても、一般に愛用される海蟹は決して店に置かなかった。――それには理由があった。
 秦啓源が日本にやって来て、大使館に籍を置いて暫く滞在することになった時、歓迎の真意を表する仕方を私はあれこれと考えあぐんだ末、川蟹を思いついたのである。嘗て長らく日本にいて、親しい間では「シンさん」ではなく「ハタ君」などと呼ばれていたそういう彼だから、ありふれたことでは面白くあるまい。真に打ち解けた気持ちで、吾々の「五郎」で焼酎を飲み川蟹をつっついたならば……。丁度晩秋から初冬へかけて、彼地では、楊子江下流地域に、ドザハ(大石蟹)と称する川蟹が氾濫する。先年私は上海に行ってた時、殆んど毎日のように、彼と一緒にその川蟹を食べたものだ。日本の川蟹もそれと全く同種のもので、ただ、少しく形が小さく、少しく肉が硬く、少しく脂が足りないだけに過ぎない。老酒のないのは淋しいが、それは上等のカストリ焼酎で補うとして、彼はきっと喜ぶに違いない。そう考えて、私は店主の大田梧郎に相談してみた。大田は首をひねったが、店で働いてる戸村直治が、千葉県に知り合いがあり、川蟹のことを請合ってくれた。そこで私は、吾々の酒場で日本のドザハを食べるんだと、秦啓源を誘ったところが、果して彼はたいへん喜んで、当日には紹興酒の二瓶をかかえて現われた。――それが、「五郎」に於ける川蟹の由来なのである。しかもこの蟹、数量が少いし、寒さに向うと殆んど獲れなくなるので、一般の客にはもう出さなくなり、吾々仲間の専用となってしまった。
 その上、蟹については、井野格三郎老人の弁慶蟹の話も思い出さ
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