れた。――弁慶蟹をつかまえ、怒らせておいて、その手にマッチの棒をはさませ、火をつけるのである。火はだんだん燃えてゆく。蟹はそのマッチの棒を怒りに任せてはさんだまま、火が手元に近づいても放さず、熱くなっても捨てることを知らず、ただ手を打ち振るだけで、遂に火傷する段になって、マッチをはさんでる手を根本からぼろりと自らもぎ落して、逃げてゆく……。
 その話を、秦啓源に伝えると、彼に真面目に言った。
「その蟹は如何にも日本的だ。全く日本的だ。」
 その説に、吾々は率直に同感したのだった。
 ところで、私の注意を惹いたことが一つある。
 私は秦啓源と波多野洋介とを交際させたかった。それで、秦に向っては、波多野のことをいろいろ話し、波多野に向っては、秦のことをいろいろ話しておいた。勿論さしさわりのない事柄だけではあったが、それを、秦は黙って聞いたし、波多野も黙って聞いた。それから「五郎」で、私は二人を紹介した。
 土間の棕櫚竹の鉢植えのそばで、つっ立ったまま、彼等は、互いにじっと見合った。時間にして僅か数秒だったろうが、それが何としても不自然だと思えるほどの長い間、じっと見合った。それも、顔立を眺めるとか顔色を読むとかいうのではなく、眼の中をじっと見入って、眼の孔から心中を覗きこむという工合だった。とっさに、私は感じた。この二人は前から知り合いだったのだ。然しそれならばなぜ、相手方に関する私の話を、二人とも黙って聞き捨てたのであろうか、他人に知られたくない秘密が二人の間にあったのであろうか。疑惑が私の胸に萠した。
 二人はじっと見合った後、殆んど無表情のまま、手を差し伸して、固く握手した。
 後で私の知り得たところでは、彼等は、或る文化的会合で顔を合せたことがあった。二人ともあまり饒舌らなかったが、時に意見を吐露すると、それがふしぎなほど合致して、遂には二人だけの対談のような調子で口を利いたらしい。それでも二人は、誰からも互いに紹介されることなく、名前も知らずに別れたらしい。但し、その時の話題や彼等の意見がどういうものだったかは、明かでないし、茲に詮索する必要もなかろう。それ以外の彼等の交渉については、私はなにも知らない。そして私のちっぽけな疑惑などは、その後の彼等の親しい態度のなかに解消してしまったし、焼酎や紹興酒や川蟹のなかに飛散してしまった。
「五郎」は夕刻から宵にかけて
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