「今晩は、僕はこれで失礼するよ。君達はゆっくりしていってくれ。大田にそういっておくから。」
 それから後は千枝子を顧みた。
「さあ行きましょう。」
 二人はあわただしく出て行った。外は月夜だった。――彼等はそれから、自宅まで三キロほどの道を歩いていったらしい。
 彼等が出て行くと秦はふいに言い出した。
「似ている。なんだか似ている。」
「何が似ているんだい。」
 秦は遠いことを考えるような調子で、ぽつりと言った。
「柳丹永。」
 魚住千枝子が柳丹永に似ているかどうか、そんなことは別として、柳丹永のことが夢の中のように私の頭に浮んだ。――彼女は嘗て上海で、秦啓源の愛人だった。殆んど無意識のうちに、日常、霊界と感応して、特殊なことを予見する能力を持っていた。そして精神が燃えつきるような工合に、突然、静かに死んでいった。私は彼女について、ほかで述べたことがあるから、茲には省略しよう。
 ところで、私の見るところでは、魚住千枝子と柳丹永は似ていなかった。霊界に関することは別としても、性格や容貌も似ていなかった。ただ、頬の薄い皮膚の緊張のさまだけが、そっくりであった。その一点だけが、今、どうして秦啓源の心に拡大されて写ったのであろうか、照顕さまの一件が反映した故であろうか。彼が異国の旅に在る故であろうか。――私はしみじみとした気持ちで、その夜、彼に蟹をすすめ酒をすすめた。
 とはいえ、柳丹永のことを秦がいい出した一事は、何か気になった。その翌日、波多野洋介が魚住千枝子を拉し去るようにして、母や家人の思惑も憚らず、山間の温泉へ行ってしまったことを知って、私はなぜか冷りとした。大田梧郎も不安な気持ちを感じたらしかった。秦啓源も凶めいた感情を懐いたらしかった。それが何故であるかははっきり言い難い。彼等がたとい愛し合ったとしても、そこには何の危険もなかった筈である。情熱そのものさえも、二人の間では非情めいていたろう。然し実は、そのための不安だったかも知れない。吾々は波多野の帰来を待ちわびながら、あまり彼のことを口に出さなかった。
 何の音信もない五日の後、吾々が安心したことには、波多野と千枝子は帰って来た。波多野はいつもの通り無頓着な服装だったが、千枝子は珍しく洋装で、ビロードの服に薄茶の外套をまとっていた。そして二人揃って、「五郎」に蟹を食いに来た。波多野はたえず微笑しており、千
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング