神子は香を焚いた。
 暫く沈黙のあとで、彼女は向き返って言った。
「眼に見えるものを信じなされてはいけませぬ。心に見えるものを信じなされませ。」
 澄んで冴えた美声だった。一息おいて、彼女はまた繰り返した。
「眼に見えるものを信じなされてはいけませぬ。心に見えるものを信じなされませ。」
 彼女はまた香を焚いた。口から外へ殆んど洩れない声で何か誦した。それが非常に長い時間だと思える頃、卓上に置かれてる如意を取って向き返り、千枝子の前に来た。
「初めてのお方のようでありますが、如意を預かれますか。」
「はい。」と千枝子は躊躇なく答えた。
 そして彼女は如意を受取り、それを礼拝して、神子に返した。神子は頷いた。――私があとで聞いたところによれば、この如意拝受のことを千枝子は知らなかったが、とっさに、ごく自然にやってのけたそうである。
 神子は秦の前に来た。秦は千枝子のしぐさを真似て、その通りにやった。ただ、拝受の折に、鋭くその品物を見調べた。
 神子は席に戻って、読経をはじめた。もう澄んだ美声ではなく、力のこもった太い声で、それが次第に女声から男声へと変っていった。その読経は、経典なしの真の暗誦だった。経文は普通に使用される三部経のいずれでもなく、華厳経の一部だった。
 童女は膝に手を置いて眼をつぶり、美春も老人も胸もとに合掌して眼を閉じていた。
 秦は腹部に両手先を組んで、細目を開いていた。然し眼につくものは何もなく、先刻の如意が眼の底に残っていた。それは竹で拵えたもので、先端の雲形の代りに、小さな宝珠の群彫があった。恐らくは如意宝珠を意味したものであろうか。柄は短く、一尺ほどで、文字が彫りつけてあった。「随処作主、立処皆真」というその二句は、臨済録の真諦をなすものであって、それがへんに秦の心にかかった。彼はそこに思念を向けて、そして眼をつぶりかけた。
 その頃から、異変が起りかけた。美春がややもすれば腹匐いになりそうだった。合掌した手先を高く挙げると共に、上体を前に屈めて畳とすれすれになり、手先から腰へかけて、ゆるい蠕動をはじめた。神子はただ合掌して読経していたが、ちらと、美春の方を振り向いた。即時に、美春は普通の姿勢に返った。がやがて、美春はまた上体を屈めて、蠕動しはじめた。神子はちらと振り向いた。美春は元の姿勢に返った。それからまた、蠕動をはじめた。――それが幾度
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