碑文
――近代伝説――
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)芥子《からし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]
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ある河のほとりに、崔という豪家がありました。古い大きな家ですが、当主の崔之庚が他から買い取って住んでいるのでした。
崔之庚は六十歳ばかりの矍鑠たる老人で、一代で富をなしたのだといわれています。大地主で、農産物の売買などもしていますが、大体閑散な生活を送っていて、時々旅に出ることがありました。他の土地に第二第三の夫人たちがいるとの噂もありました。また、済南の紅卍字教の母院と青島の后天宮によくお詣りをするとの噂もありました。
崔之庚が自慢にしているものが二つありました。
一つは、高さ二尺ばかりの円い壺で、年代のほども分らない古ぼけたものでした。ただ古いというだけで、美術品としての価値はありませんが、崔之庚はそれを飾り床の上に据えて、大切にしていました。――昔彼が青島の一漁夫にすぎなかった頃、沖で魚網を投ずると、魚は一尾もはいらず、重い壺が一つかかってきた。天から授ったその壺の中には、金銀が一杯はいっていたという。そういう因縁が、親密な者には彼自身の口から語られる、その壺だったのであります。
もう一つは、夫人の崔範でありました。三日月型のやさしい眉、澄みきった瞳を宙に浮かした切れの長い眼、細い鼻、小さな口、頬の皮膚が薄く透いて蒼ざめていました。背丈は五尺に足りない細そりした身体でした。崔之庚は家庭の宴席で酒の興に乗ると、この夫人を椅子に坐らしたまま軽々と持ち上げて、客たちの間を運び廻り、最後に奥の室へ連れて行くのでした。夫人はにこにこ笑っていました。彼女は三十五ほどの年配で、崔之庚とは年齢の差が大きすぎました。彼女がまだ極めて年若な頃、崔之庚は彼女を娶る時、彼女の家から老酒の一甕を貰っただけで、彼女に対して、黄絹七反、柴絹七反、毛皮三枚、五個五色の宝石、それに若干の黄金を贈物にしたということであります。「それが私の全財産の半分でありましたよ。」と崔之庚は酔余の上機嫌でいったことがありました。
崔範は身体が弱く、外出することもあまりなく、いつも香りの高い煎薬をのんでいました。僅かな感動にも頬から血の気が去りました。
初夏の暑い或る日、崔之庚は早くから用達しに出かけていて、崔範と娘の崔冷紅とが午の食卓に向っていました。崔範は朝から気分が悪く、食物にもちょっと箸をつけたきりで、食卓に片肱をつき、掌に頬をもたせて、ぼんやり物思いに沈んでいました。
側には徐和がついていました。四十歳ばかりの逞ましい男で、崔家の一切のことを取締り、多くの男女の召使を指図し、来客のある盛宴には自ら料理の腕も振うという、いわば執事であり召使頭であり料理人でありました。若い頃船員だったことがあり、各地の事情にも通じ、いろいろな知識を持っていましたが、どういうわけか、崔家に仕えて、未だ妻も迎えずに暮していました。頑丈な体躯とひどく慇懃鄭重な物腰とが、不思議にしっくりと調和してる男でありました。
徐和は崔範の様子に目をつけながら、全く没表情な顔で丁寧にいいました。
「なにかお気に召すものを、拵えることに致しましょうか。」
崔範はちらと笑みを見せて、答えました。
「いいえ、これで結構です。ちょっと、気分がわるいものだから……。」
「でも、少し召上らなくてはいけないわ。」と冷紅がいいました。
「御心配なことでもありますの。」
崔範は静かに頭を振りました。
「御心配なことなどはございません。いえ決して、そのようなことはございません。」
徐和は強くいいきって、それでも全く表情の分らない顔付で、熱い茶をくんできて差出しました。
崔範は茶碗を無心にもてあそびながら、ゆっくり茶をすすり、それから扇を取って立上りました。
「少し外へ出てみましょうか。」
「ええ、それがよろしいわ。」と冷紅は答えました。
少し薄暗い次の室を通りぬけると、広庭へおりる石段がありました。そこの扉を開いて、徐和が頭をさげて佇んだ時、冷紅は声を立てて駆け出し、崔範は石段の上に竦んでしまいました。
その時、明るい真昼の中に見えたのは、冷紅にとっては、空低く飛んでる真白な美しい一羽の鳥でした。けれど崔範の眼には、それが真黒な鳥と見え、その暗い影がたちまち眼界を蔽い、頭のしんまでおしかぶさってきました。彼女は瞼をふさぐ力もなく、手の扇を半ば開いて持ち上げかけて取落し、自分も棒のように倒れかけました。
瞬間に、徐和が彼女を支えました。彼女の全身の重みが託されてくるのを徐和は両腕にしかと抱きとめ、しばしその顔を眺めていましたが、俄に身震いをして、彼女を軽々と胸に抱きあげ、彼女の私室へ駆けてゆき、その寝床に彼女を横たえ、それから室の外に向って、大声に人を呼びました。
冷紅がやって来、大勢の召使たちがとんで来ました。
崔範は意識を失ったまま、ただ細い呼吸を続けていました。
月光の美しい晩のことでありました。広庭の小亭で、二十五歳ばかりの青年がただ一人、ウイスキーを飲んでいました。白皙な顔容に長髪、クリーム色の背広服に革の白靴、崔家ではちょっと異様な身装でした。崔範の甥に当る者で、曹新といって、幼い時から崔家に引取られ、外国へ行って社会学を修め、帰国後もなお北京にいて勉強を続けていましたが、崔範の病気に慌ててかけつけて来たのであります。
彼は何か物憂げな様子で、ウイスキーのグラスを幾杯も空けていました。
そこへ、殆んど足音も立てず、古ぼけた目立たない支那服の徐和が、やって来ました。
「何か持って参りましょうか。」
「うん、いいよ。」と曹新はそっけなく答えました。
徐和はウイスキーの瓶を取上げ、酌をしました。
「北京からお持ちになりましたのですか。」
「そう、万一の用心にね。」
徐和が黙っているので、曹新はいいそえました。
「危篤な病人のそばでは、こちらに気付薬が必要だからね。」
徐和は上目使いに曹新の顔を見てそこに腰をおろして尋ねました。
「そして、お医者のことは、如何でございました。」
「だめだ。」と曹新は吐き捨てるようにいいました。「伯父さんはどうしても承知しない。」
「左様でございましょう。私には分っておりました。」
「なに、分っていた………どうしてだい。」
徐和は黙っていました。
「その訳を聞こうじゃないか。どうしてだい。」
「それでは申しますが、私はあの時、旦那様の厳しいお眼を、二度拝見しました。奥様がお倒れなさる時、両手で抱きとめましたことをお話しますと、旦那様は恐ろしい眼付で私を御覧になりました。それから、御介抱申す時、お足に湯たんぽをあてて差上げお胸に芥子《からし》をはって差上げたことをお話しますと、旦那様は一層恐ろしい眼付で私を御覧になりました。」
「それが一体、どういうことになるのか。」
「私にはよく分っております。下男の身分で憚りもなく、奥様を抱きかかえたり、お肌に手を触れたりするのは、不埓なことだというのでございます。」
曹新は立上りました。
「ですから、何処の何者とも知れない他人のお医者に、奥様のお身体を任せるなどということを、御承知になる筈はございません。」
曹新はつっ立ったまま、徐和の顔をじっと見ましたが、その表情に何物も読み取ることは出来ませんでした。月明りで見る徐和の顔は、まるで木の面でもかぶったようでありました。
「君は本気でそんなことをいってるのか。」と曹新は徐和のそばにつめ寄りました。
「はい、嘘は申しません。」
「それなら、尋ねるが、君はふだん、伯母さんを……好きだったのかい。打明けてくれないか。」
「滅相もないことを仰言います。奥様を御大切には思っておりますが、召使の身分として大それた考えは決して致しません。」
「然し、伯父さんは僕に、医者とか医学とかを信用しないといって、昔風の煎薬と塗薬とだけを頼りにしていられるが、それと、君が今いったことと、どちらが本当だろう。」
「どちらも本当でございましょう。」
「どちらも本当……。」
曹新は何かにぶつかったように口を噤みましたが、ふと調子を変えました。
「も一つ、杯を持って来てくれないか。」
「はい、何になさいますか。」
「なんでもいいから、持って来てくれ。」
そして月の光の中を、歩きまわりました。
やがて徐和が、水瓜の種と落花生とを盛った皿と、グラスを、銀の盆にのせて持って来ますと、曹新は彼を自分の横に坐らせて、ウイスキーをついでやりました。
「いろいろ君に聞きたいこともあるから、まあ、飲みながら話そう。」
徐和は素直にグラスを受けました。
曹新は声を低めて、ゆっくりといい出しました。
「君はいろいろ知識もあり、頭もよく、それにもう相当な年配になっていながら、伯父さんのいうことには何一つ逆らわず、こんどの伯母さんのこともそうだし、全く盲従しているようだが、それは一体、どういうわけかね。」
「私は召使の身分でございます。」
「召使はそういうものかね。」
「それにまた、これはいつぞや申したことでございますが、私の親父はもと旦那様と御懇意を願っておりまして、何かとお世話になったこともありますそうで、その親父が亡くなります時に、善悪ともにこちらの旦那様のために尽すように、善悪ともにと、くれぐれもいい遺しました。」
「善悪ともに……。」
「はい、これはもうどうにもならないことでございます。」
曹新は黙りこんで、ウイスキーの杯を重ねた。そして突然きりだした。
「君は伯父さんのことは万事知っているだろうが、隠さずにいってくれないか。一体、伯父さんの今の財産は、どうして出来たんだね。」
「自然に出来たのでございましょう。」
「自然に……。それなら伯父さんが自慢にしていられるあの壺、金銀が一杯はいっていたとかいう壺は、あれは本当に海から出たのかね。」
「それは私は存じません。けれど、あなた様はどうお考えでございますか。」
「分らないから聞くんだよ。」
「私はもと船乗りをしておりまして、海のことはよく知っておりますが、あの壺が長く海につかっていたものでしたなら、貝殻がついたり藻が生えたりしまして、なかなか容易に落ちるものではなく、むりに落せばいろいろ傷がつきます。あの壺にはそういう傷はないようでございます。」
「うむ分った。……それから、伯父さんは時々旅に出られるが、別に商売の用でもなさそうだし、いつも曖昧らしいが、大体どの方面におもに行かれるのかね。」
「私もよく存じませんがあなた様はどうお考えでございますか。」
「分らないから聞くんじゃないか。」
「奥様やお嬢様へのおみやげ物は、大抵、上海あたりの品物のようでございます。」
「ああそうか。……それから、家に時々、穀物類の商人とかがやって来て、奥の室で人を遠ざけて、伯父さんと長い間話しこんでゆくことがあるそうだが、それは本当の商人かね。」
「私には分りませんが、あなた様はどうお考えでございますか。」
「またか。分らないから聞いてるんだよ。」
「普通の商人でありましたなら、それほど長い時間、秘密に話しこむこともございますまい。」
「そうか。……それにしても、伯父さんはよく、済南の紅卍字教の母院や青島の后天宮に、詣られるそうだが、本当かね。」
「本当でございましょう。紅卍字会には相当な寄附金をなすっておいでになります。また、青島の后天宮は、何を祭ってありますところか御存じでございますか。」
「知らないね。」
「あれは、舟神と財神とを祭ってあるところでございます。けれど旦那様はもう、船の方には関係はございません。」
「すると財神だが………まだ財産を殖したいのかな。」
「財産はいかほどあっても足りない場合がございましょう。」
「どんな場合かね。」
「私にはよく分りませんけれど、財産はほかのものと直接につながることが多いようでござい
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