ます。」
「何とだね。」
「まあ例えて申せば、政治とか権力とか、そのほかのものでございましょう。」
 そこで、会話は途切れてしまいました。曹新はしきりにウイスキーを飲み、徐和にも勧め、徐和ももう遠慮なく受けました。
 長く沈黙が続いた後で、曹新は足で地面を一蹴りしていいました。
「僕は加担しない。」
 徐和は眼を挙げました。
「それでよく分った。僕が内々気遣ってた通りだ。断っておくが、僕には僕の考え方があるから、まあ放っておいて貰おう。」
 徐和はその太い眉の下から、怪訝そうに曹新を見つめました。
「よく分ったよ。」と曹新はくり返しました。「いつぞや、君は僕によい忠告をしてくれたことがあったね。これまで研究してきた社会学が、国に帰って来てみると、何だか尺度が違ってる感じがして、僕が途方にくれてることを、君に打明けた時、君はこういうことをいったね。社会学とか政治学とか、そういう法則的なものは、こちらにはあてはまらない。そうした抽象的な法則よりも、なぜ物の学問をしないか。雲の学問でもよいし、実際の物の学問をなぜしないか。言葉は違うが、そういう意味のことを君はいった。その後僕もいろいろ考えて、君の意見に或る真理があることを、この支那の土地で悟った。然しその真理は真理としておいて、君があの時いったことは、みな、今日の伏線だったんだね。秩序や法則の破壊が、君達の目指すところだろう。伯父さんも君も同類だ。だが、変に持って廻ったいい方をして僕を引き込もうとするのは、当分やめたがよかろう。僕にも別に信ずるところがあるんだ。」
 徐和は落着きはらって、きっぱりといいました。
「あなた様は、なにか、大変な考え違いをなすっていられます。私はただお尋ねなさいますことに、お答えしただけでございます。」
 狼狽の気も皮肉の気もない、まともな調子でした。
「それなら、君は伯父さんの一味ではないのか。」
「旦那様がどういうことをなすっておられますか、私はよく存じません。」
「では、伯父さんは成功されると思うか、失敗されると思うか。」
「私には全く分りません。」
「それで君はいいのか。」
「私はただ召使で、旦那様のお側に、善悪ともに、おつきしているだけでございます。」
「それだけで本望なのか。」
「親父もそういい遺しました。仕方がございません。」
「なに、仕方がない。」
「仕方がございません。」
 曹新は我を忘れたようにつっ立って、右の拳で徐和の頬を殴りつけました。徐和はじっと頭を垂れました。その逞ましいそして従順な姿を見据えて曹新は自分の頭の髪をかきむしり、鋭く叫びました。
「あっちに行き給え、穢らわしい。」
 徐和は静かに立上って、向うへ歩み去りました。
 曹新は暫く茫然と佇んでいましたが、頭を強く打振り、ウイスキーをたて続けに飲み、まだいくらかはいっているその瓶を地面に叩きつけ、瓶の砕ける音を聞いてから、腰掛の上に仰向けに寝そべりました。

 崔範は病床に横たわったきりで、朦朧とした意識のまま、殆んど食餌を摂らず、十日ばかりで息絶えました。
 その盛大な葬儀は、徐和がおもに指図して、万事手落ちなく済まされました。墓地は家から一キロほどの西方の野に占選され、煉瓦と白堊の小廟が築かれました。
 崔之庚は殆んど客にも逢わず、口も利かず室に籠りがちでした。崔冷紅は墓参りにおもな時間を費しました。曹新は散歩ばかりしました。徐和は鄭重な物腰で家事を取締りました。そして一家の空気が、中心のない寂寥なものになりかけました。
 その時、葬儀がすんでから半月ばかりたった頃ですが、崔之庚はふいにいい出しました。
「庭の池に水をいれて、金魚を泳がしてみたいと、故人がいっていた。面白い思いつきだ。それを果してみよう。故人生前の希望だから、なるべく家人だけの手でやりたい。日数はどれだけかかってもよろしい。」
 広庭には粗らな木の植込の中に、※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙な太湖石がさまざまに積み重ねられていまして、奇体な雲形を至る所に現出し、或は仙人を、或は昇竜を、或は怪獣を、彷彿せしむるものがありました。そして彼方に小亭があり、笹の茂みが背景となっていました。
 その太湖石の重畳の間に、深さ三四尺の空地が延びていて、熊笹や雑草が周縁に生えていました。この池を掘り拡げ、掘り深め、底をセメントで固めて水を張り、赤や緋の魚を放とうというのであります。
 日数の制眼はなく、下男達は隙にあかして仕事にかかりました。崔之庚は時々出て来て指図し、池の形状について曹新にも意見を求めました。徐和も熱心に仕事を手伝い、自ら鍬を執ることもありました。
 曹新は何気なく池の中におりて行き、鍬を手にしている徐和とばったり出逢った時、その前に立止って、探るような視線をなげかけました。
「伯母さんは、実際、このようなことを望まれたことがあるのかね。」
「よくは存じませんけれど、お望みになられた筈でございます。」
「なに、望まれた筈だと………。」
「左様に存じます。」
 汗かいたその浅黒い顔には、言葉以外に何物も浮んではいませんでした。曹新が黙っていますと、彼は呟くようにいいました。
「私は早く仕上がるようにと思いまして、出来るだけ手伝っております。」
「早い方がよいのかね。」
「はい、こんどのことに限って、旦那様はお気が長うございます。それもまあ、仕方がございません。」
 へんに底まで見通しているようで、しかもそれを顔に現わさない様子と、仕方がないという最後の言葉とに出逢って、曹新はちらと眉をしかめ、そのまま歩き去ってしまいました。そして池から出るとほーっと大きく息をしました。
 その翌日の夕方のことでした。徐和が一人で池の底にいて、深さや縁取りの工合を見調べ、腕を拱いて考えていました時、突然、頭の上から、巨大な太湖石が崩れ落ち、彼は声を立てるまもなく岩角に頭と背とを砕かれました。
 物音に、下男がやって来まして、太湖石が二三崩れ落ちてるのを見て取り、その下に、徐和が血にまみれて横たわってるのを見出しました。彼は死の叫び声を立てました。大勢かけつけました。多くの叫び声が起りました。
 崔之庚は徐和の悲惨な死体を見て、激しい憤怒の色を現わしました。然し、物に動じない言葉の調子でした。
「死体は鄭重に扱うがよい。」
 それから、急に声を震わしました。
「その太湖石は血に汚れたものだ。河に運んで沈めて来い。池のことはもう中止だ。前よりも浅く埋めてしまえ。」
 どうしてその惨事が起ったかを取調べようともしませんでしたことを、誰も気付く者がありませんでした。
 命ぜられた通りに行われました。召使達は徐和の死体をその生前の室に運び、泥を拭き清め、血を拭き清めました。
 そして薄暗くなりかけた頃、大きな太湖石は数人の者に運ばれて、曹新もその供をし、遙か下手の方で、河の中に投ぜられました。夕闇の中で、石は水面にちょっと浮いて止ったように見えましたが、すぐにすーっと沈んで、泡がたち、泡のあとに、真黒な渦が巻いて流れました。
 一同は、無言のまま、後をも見ずに家へ帰りました。
 徐和の葬儀は簡略に行われました。崔範の小廟から少し離れたところに、小さな石をのせた土饅頭が一つふえました。
 数日後、崔之庚は済南へ出かけました。紅卍字教母院の道院にこもって、二十一日間の祈念修道をして来るのだといい置きました。

 早朝のことでありました。曹新と崔冷紅とは、崔範の墓参から戻って来て、人目につかない裏庭の片隅に坐っていました。大きな槐の木影で側の夾竹桃の茂みには、薄紅い花がまだ幾つか散り残っていました。
 曹新は洋服のハイカラな身装で細いステッキを手にしていました。崔冷紅は黒い薄絹の服をまとい、十七歳のすらりとした姿で、小麦色の頬にかすかな紅を呈し、母親譲りの長い眼をしばたたいていました。
「なにか御用なの。」と彼女はいって、眩しそうな眼付をしました。
「うん、いよいよ決心をしたよ。」と曹新は答えました。
 崔冷紅は黙っていました。
「僕は今日出立するつもりだ。」
「お父さまが帰られてからになすっては……。」
「いつのことか分らないし……。」
「でも、二十一日間と仰言ったわ。それに、使の者もお目にかかって来たことだし、やはり、済南の道院にいらっしゃるのだから、二十一日すぎたら帰ってみえるわよ。あともう一週間ばかりでしょう。」
「だけど、僕はなんだか、伯父さんに逢うのが怖いような気がするんだ。」
「どうしてでしょう。」
「君にすっかり話そうかどうしようかと、随分迷ったけれど、やはり出立前に話しておこうときめたんだ。さっき君は、どんなことにも驚かないといったね。」
「ええ、その通りよ。」
「では打明けるがね、驚いちゃいけないよ。徐和が死んだ時のことだ。僕はなんだかあの池のことが気になり、奇怪な太湖石のこともへんに眼について、あの時、窓からのび上がって、庭の方を覗いていた。すると、誰か、あの太湖石の方へ忍びよってゆく者がある。暫くすると、その男が、両手で太湖石を池の中へ押し倒した。そしてあの椿事だ。あの大きな岩が、セメントで固めてあった筈の岩が、容易くころげ落ちたのも不思議だが、その男が、岩を押し落し、身をかわすが早いか、ぱっと逃げ去った、その素早さには、僕は驚嘆してしまった。その男を、君は誰だと思うかい。」
「お分りになったの。」
「それが、伯父さんじゃないか。」
「まあ、お父様が……そんなことを……。」
 崔冷紅は顔色を変えて、石のように固くなりました。
「だからさ、驚いちゃいけないといったんだよ。」
「だって、どうしてお父様が、そんなことを……。嘘でしょう。」
「本当だよ、この眼で見たんだから。そのわけは僕にもよくは分らない。けれど、いろいろのことから察すると、伯父さんはなにか政治上の危険な秘密な運動に加わっていられるらしい。よく上海方面に旅行されたり、怪しい男たちが商人にばけて来て、奥の室で長い間話しこんでいったりするだろう。昔、青島の海からあがったという壺の中の金銀の話も、どうも嘘らしい。そういうことを徐和が知っていて、ただじっと見ていたらしい。」
「それで、お父様の立場が、危険になったというの。」
「まあそんなこともあるだろう。それから、伯母さんが倒れられた時、徐和が抱きとめたり、いろいろ手当したりしたのをきいて、伯父さんはひどく気を悪くなすったそうだ。」
「どうしてでしょう。」
「どうしてだか、まあ……伯母さんは、伯父さんにとって、ひどく大切なものだったんだね。だから、いくら勧めても、医者にもおかけなさらなかった。結婚の時も黄絹七反、紫絹七反、毛皮三枚、五つの五色の宝石を、お贈りなすったという評判だろう。無理に買い取りなすったようなものだ。」
「いいえ、それは違うわ、違ってよ。お母様は、その残りのものかどうか分らないけれど、黄絹と紫絹と五色の宝石を、たいへん大事にしていらしたのよ。それで、お亡くなりになった時、私一人で、ちょっと棺のそばにいさして貰ったでしょう。あの時、私、その黄絹と紫絹と五色の宝石を、棺の中へ入れてあげたのよ。お母様のお望み通りにしたのよ。」
「え、本当なの。」
 崔冷紅はうなずきました。曹新は考えこみました。そして二人とも暫く黙っていましたが、崔冷紅はふいに涙ぐんで、ハンカチを口にくわえてすすり泣きました。
「どうしたの。」と曹新は尋ねました。
「だって、お兄さんは、つまらないことばかり気にしているんですもの。」
 曹新は言葉につまって、立上ってその辺を歩きだしました。それから戻ってきて、崔冷紅の肩に手をかけて、いいました。
「ねえ、も一度北京に出て、勉強してみる気はないの。」
 崔冷紅は頭を振りました。
「お父様が、とてもお許しにならないわ。」
 それきり、二人は口を噤んでしまいました。時間がたって、槐の木影が次第に移ってゆきました。
 曹新は、決心の眼を宙に据えていいました。
「僕はやはり、今日出立しよう。伯父さんにお逢いしない方がよさそうだ。伯父さんが帰られたら、こう伝えてお
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