した。
 数日後、崔之庚は済南へ出かけました。紅卍字教母院の道院にこもって、二十一日間の祈念修道をして来るのだといい置きました。

 早朝のことでありました。曹新と崔冷紅とは、崔範の墓参から戻って来て、人目につかない裏庭の片隅に坐っていました。大きな槐の木影で側の夾竹桃の茂みには、薄紅い花がまだ幾つか散り残っていました。
 曹新は洋服のハイカラな身装で細いステッキを手にしていました。崔冷紅は黒い薄絹の服をまとい、十七歳のすらりとした姿で、小麦色の頬にかすかな紅を呈し、母親譲りの長い眼をしばたたいていました。
「なにか御用なの。」と彼女はいって、眩しそうな眼付をしました。
「うん、いよいよ決心をしたよ。」と曹新は答えました。
 崔冷紅は黙っていました。
「僕は今日出立するつもりだ。」
「お父さまが帰られてからになすっては……。」
「いつのことか分らないし……。」
「でも、二十一日間と仰言ったわ。それに、使の者もお目にかかって来たことだし、やはり、済南の道院にいらっしゃるのだから、二十一日すぎたら帰ってみえるわよ。あともう一週間ばかりでしょう。」
「だけど、僕はなんだか、伯父さんに逢うのが怖いような気がするんだ。」
「どうしてでしょう。」
「君にすっかり話そうかどうしようかと、随分迷ったけれど、やはり出立前に話しておこうときめたんだ。さっき君は、どんなことにも驚かないといったね。」
「ええ、その通りよ。」
「では打明けるがね、驚いちゃいけないよ。徐和が死んだ時のことだ。僕はなんだかあの池のことが気になり、奇怪な太湖石のこともへんに眼について、あの時、窓からのび上がって、庭の方を覗いていた。すると、誰か、あの太湖石の方へ忍びよってゆく者がある。暫くすると、その男が、両手で太湖石を池の中へ押し倒した。そしてあの椿事だ。あの大きな岩が、セメントで固めてあった筈の岩が、容易くころげ落ちたのも不思議だが、その男が、岩を押し落し、身をかわすが早いか、ぱっと逃げ去った、その素早さには、僕は驚嘆してしまった。その男を、君は誰だと思うかい。」
「お分りになったの。」
「それが、伯父さんじゃないか。」
「まあ、お父様が……そんなことを……。」
 崔冷紅は顔色を変えて、石のように固くなりました。
「だからさ、驚いちゃいけないといったんだよ。」
「だって、どうしてお父様が、そんなことを……。嘘でしょう。」
「本当だよ、この眼で見たんだから。そのわけは僕にもよくは分らない。けれど、いろいろのことから察すると、伯父さんはなにか政治上の危険な秘密な運動に加わっていられるらしい。よく上海方面に旅行されたり、怪しい男たちが商人にばけて来て、奥の室で長い間話しこんでいったりするだろう。昔、青島の海からあがったという壺の中の金銀の話も、どうも嘘らしい。そういうことを徐和が知っていて、ただじっと見ていたらしい。」
「それで、お父様の立場が、危険になったというの。」
「まあそんなこともあるだろう。それから、伯母さんが倒れられた時、徐和が抱きとめたり、いろいろ手当したりしたのをきいて、伯父さんはひどく気を悪くなすったそうだ。」
「どうしてでしょう。」
「どうしてだか、まあ……伯母さんは、伯父さんにとって、ひどく大切なものだったんだね。だから、いくら勧めても、医者にもおかけなさらなかった。結婚の時も黄絹七反、紫絹七反、毛皮三枚、五つの五色の宝石を、お贈りなすったという評判だろう。無理に買い取りなすったようなものだ。」
「いいえ、それは違うわ、違ってよ。お母様は、その残りのものかどうか分らないけれど、黄絹と紫絹と五色の宝石を、たいへん大事にしていらしたのよ。それで、お亡くなりになった時、私一人で、ちょっと棺のそばにいさして貰ったでしょう。あの時、私、その黄絹と紫絹と五色の宝石を、棺の中へ入れてあげたのよ。お母様のお望み通りにしたのよ。」
「え、本当なの。」
 崔冷紅はうなずきました。曹新は考えこみました。そして二人とも暫く黙っていましたが、崔冷紅はふいに涙ぐんで、ハンカチを口にくわえてすすり泣きました。
「どうしたの。」と曹新は尋ねました。
「だって、お兄さんは、つまらないことばかり気にしているんですもの。」
 曹新は言葉につまって、立上ってその辺を歩きだしました。それから戻ってきて、崔冷紅の肩に手をかけて、いいました。
「ねえ、も一度北京に出て、勉強してみる気はないの。」
 崔冷紅は頭を振りました。
「お父様が、とてもお許しにならないわ。」
 それきり、二人は口を噤んでしまいました。時間がたって、槐の木影が次第に移ってゆきました。
 曹新は、決心の眼を宙に据えていいました。
「僕はやはり、今日出立しよう。伯父さんにお逢いしない方がよさそうだ。伯父さんが帰られたら、こう伝えてお
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