曹新は我を忘れたようにつっ立って、右の拳で徐和の頬を殴りつけました。徐和はじっと頭を垂れました。その逞ましいそして従順な姿を見据えて曹新は自分の頭の髪をかきむしり、鋭く叫びました。
「あっちに行き給え、穢らわしい。」
 徐和は静かに立上って、向うへ歩み去りました。
 曹新は暫く茫然と佇んでいましたが、頭を強く打振り、ウイスキーをたて続けに飲み、まだいくらかはいっているその瓶を地面に叩きつけ、瓶の砕ける音を聞いてから、腰掛の上に仰向けに寝そべりました。

 崔範は病床に横たわったきりで、朦朧とした意識のまま、殆んど食餌を摂らず、十日ばかりで息絶えました。
 その盛大な葬儀は、徐和がおもに指図して、万事手落ちなく済まされました。墓地は家から一キロほどの西方の野に占選され、煉瓦と白堊の小廟が築かれました。
 崔之庚は殆んど客にも逢わず、口も利かず室に籠りがちでした。崔冷紅は墓参りにおもな時間を費しました。曹新は散歩ばかりしました。徐和は鄭重な物腰で家事を取締りました。そして一家の空気が、中心のない寂寥なものになりかけました。
 その時、葬儀がすんでから半月ばかりたった頃ですが、崔之庚はふいにいい出しました。
「庭の池に水をいれて、金魚を泳がしてみたいと、故人がいっていた。面白い思いつきだ。それを果してみよう。故人生前の希望だから、なるべく家人だけの手でやりたい。日数はどれだけかかってもよろしい。」
 広庭には粗らな木の植込の中に、※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙な太湖石がさまざまに積み重ねられていまして、奇体な雲形を至る所に現出し、或は仙人を、或は昇竜を、或は怪獣を、彷彿せしむるものがありました。そして彼方に小亭があり、笹の茂みが背景となっていました。
 その太湖石の重畳の間に、深さ三四尺の空地が延びていて、熊笹や雑草が周縁に生えていました。この池を掘り拡げ、掘り深め、底をセメントで固めて水を張り、赤や緋の魚を放とうというのであります。
 日数の制眼はなく、下男達は隙にあかして仕事にかかりました。崔之庚は時々出て来て指図し、池の形状について曹新にも意見を求めました。徐和も熱心に仕事を手伝い、自ら鍬を執ることもありました。
 曹新は何気なく池の中におりて行き、鍬を手にしている徐和とばったり出逢った時、その前に立止って、探るような視線をなげかけました。
「伯母さんは、実際、このようなことを望まれたことがあるのかね。」
「よくは存じませんけれど、お望みになられた筈でございます。」
「なに、望まれた筈だと………。」
「左様に存じます。」
 汗かいたその浅黒い顔には、言葉以外に何物も浮んではいませんでした。曹新が黙っていますと、彼は呟くようにいいました。
「私は早く仕上がるようにと思いまして、出来るだけ手伝っております。」
「早い方がよいのかね。」
「はい、こんどのことに限って、旦那様はお気が長うございます。それもまあ、仕方がございません。」
 へんに底まで見通しているようで、しかもそれを顔に現わさない様子と、仕方がないという最後の言葉とに出逢って、曹新はちらと眉をしかめ、そのまま歩き去ってしまいました。そして池から出るとほーっと大きく息をしました。
 その翌日の夕方のことでした。徐和が一人で池の底にいて、深さや縁取りの工合を見調べ、腕を拱いて考えていました時、突然、頭の上から、巨大な太湖石が崩れ落ち、彼は声を立てるまもなく岩角に頭と背とを砕かれました。
 物音に、下男がやって来まして、太湖石が二三崩れ落ちてるのを見て取り、その下に、徐和が血にまみれて横たわってるのを見出しました。彼は死の叫び声を立てました。大勢かけつけました。多くの叫び声が起りました。
 崔之庚は徐和の悲惨な死体を見て、激しい憤怒の色を現わしました。然し、物に動じない言葉の調子でした。
「死体は鄭重に扱うがよい。」
 それから、急に声を震わしました。
「その太湖石は血に汚れたものだ。河に運んで沈めて来い。池のことはもう中止だ。前よりも浅く埋めてしまえ。」
 どうしてその惨事が起ったかを取調べようともしませんでしたことを、誰も気付く者がありませんでした。
 命ぜられた通りに行われました。召使達は徐和の死体をその生前の室に運び、泥を拭き清め、血を拭き清めました。
 そして薄暗くなりかけた頃、大きな太湖石は数人の者に運ばれて、曹新もその供をし、遙か下手の方で、河の中に投ぜられました。夕闇の中で、石は水面にちょっと浮いて止ったように見えましたが、すぐにすーっと沈んで、泡がたち、泡のあとに、真黒な渦が巻いて流れました。
 一同は、無言のまま、後をも見ずに家へ帰りました。
 徐和の葬儀は簡略に行われました。崔範の小廟から少し離れたところに、小さな石をのせた土饅頭が一つふえま
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