きとめ、しばしその顔を眺めていましたが、俄に身震いをして、彼女を軽々と胸に抱きあげ、彼女の私室へ駆けてゆき、その寝床に彼女を横たえ、それから室の外に向って、大声に人を呼びました。
冷紅がやって来、大勢の召使たちがとんで来ました。
崔範は意識を失ったまま、ただ細い呼吸を続けていました。
月光の美しい晩のことでありました。広庭の小亭で、二十五歳ばかりの青年がただ一人、ウイスキーを飲んでいました。白皙な顔容に長髪、クリーム色の背広服に革の白靴、崔家ではちょっと異様な身装でした。崔範の甥に当る者で、曹新といって、幼い時から崔家に引取られ、外国へ行って社会学を修め、帰国後もなお北京にいて勉強を続けていましたが、崔範の病気に慌ててかけつけて来たのであります。
彼は何か物憂げな様子で、ウイスキーのグラスを幾杯も空けていました。
そこへ、殆んど足音も立てず、古ぼけた目立たない支那服の徐和が、やって来ました。
「何か持って参りましょうか。」
「うん、いいよ。」と曹新はそっけなく答えました。
徐和はウイスキーの瓶を取上げ、酌をしました。
「北京からお持ちになりましたのですか。」
「そう、万一の用心にね。」
徐和が黙っているので、曹新はいいそえました。
「危篤な病人のそばでは、こちらに気付薬が必要だからね。」
徐和は上目使いに曹新の顔を見てそこに腰をおろして尋ねました。
「そして、お医者のことは、如何でございました。」
「だめだ。」と曹新は吐き捨てるようにいいました。「伯父さんはどうしても承知しない。」
「左様でございましょう。私には分っておりました。」
「なに、分っていた………どうしてだい。」
徐和は黙っていました。
「その訳を聞こうじゃないか。どうしてだい。」
「それでは申しますが、私はあの時、旦那様の厳しいお眼を、二度拝見しました。奥様がお倒れなさる時、両手で抱きとめましたことをお話しますと、旦那様は恐ろしい眼付で私を御覧になりました。それから、御介抱申す時、お足に湯たんぽをあてて差上げお胸に芥子《からし》をはって差上げたことをお話しますと、旦那様は一層恐ろしい眼付で私を御覧になりました。」
「それが一体、どういうことになるのか。」
「私にはよく分っております。下男の身分で憚りもなく、奥様を抱きかかえたり、お肌に手を触れたりするのは、不埓なことだというのでござい
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