のんでいました。僅かな感動にも頬から血の気が去りました。
初夏の暑い或る日、崔之庚は早くから用達しに出かけていて、崔範と娘の崔冷紅とが午の食卓に向っていました。崔範は朝から気分が悪く、食物にもちょっと箸をつけたきりで、食卓に片肱をつき、掌に頬をもたせて、ぼんやり物思いに沈んでいました。
側には徐和がついていました。四十歳ばかりの逞ましい男で、崔家の一切のことを取締り、多くの男女の召使を指図し、来客のある盛宴には自ら料理の腕も振うという、いわば執事であり召使頭であり料理人でありました。若い頃船員だったことがあり、各地の事情にも通じ、いろいろな知識を持っていましたが、どういうわけか、崔家に仕えて、未だ妻も迎えずに暮していました。頑丈な体躯とひどく慇懃鄭重な物腰とが、不思議にしっくりと調和してる男でありました。
徐和は崔範の様子に目をつけながら、全く没表情な顔で丁寧にいいました。
「なにかお気に召すものを、拵えることに致しましょうか。」
崔範はちらと笑みを見せて、答えました。
「いいえ、これで結構です。ちょっと、気分がわるいものだから……。」
「でも、少し召上らなくてはいけないわ。」と冷紅がいいました。
「御心配なことでもありますの。」
崔範は静かに頭を振りました。
「御心配なことなどはございません。いえ決して、そのようなことはございません。」
徐和は強くいいきって、それでも全く表情の分らない顔付で、熱い茶をくんできて差出しました。
崔範は茶碗を無心にもてあそびながら、ゆっくり茶をすすり、それから扇を取って立上りました。
「少し外へ出てみましょうか。」
「ええ、それがよろしいわ。」と冷紅は答えました。
少し薄暗い次の室を通りぬけると、広庭へおりる石段がありました。そこの扉を開いて、徐和が頭をさげて佇んだ時、冷紅は声を立てて駆け出し、崔範は石段の上に竦んでしまいました。
その時、明るい真昼の中に見えたのは、冷紅にとっては、空低く飛んでる真白な美しい一羽の鳥でした。けれど崔範の眼には、それが真黒な鳥と見え、その暗い影がたちまち眼界を蔽い、頭のしんまでおしかぶさってきました。彼女は瞼をふさぐ力もなく、手の扇を半ば開いて持ち上げかけて取落し、自分も棒のように倒れかけました。
瞬間に、徐和が彼女を支えました。彼女の全身の重みが託されてくるのを徐和は両腕にしかと抱
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