いておくれよ。考えることがあって居所を隠すかも知れないし、学費ももういらないし、これから特別な勉強をするんだと、ね、分ったろう。その勉強がすむまでは、君とも逢うこともあるまい。ただ、打明けるが、僕は君を愛していた。」
崔冷紅はハンカチをかみしめて泣きました。曹新は涙をはらい落して、そこを歩き去ってゆきました。
崔之庚は紅卍字教の道院にありまして、祈念修道の日々を送り、或は道士の導きにより、或は跌坐専念放心の方法によって、得る所が多くありました。そしてその格子窓だけの薄暗い室で、断片的な多くの幻影を見ました。幻影といっても、時には明確な形態のものもあれば、時には浮雲のように定かならぬ想念のものもありましたが、それを綜合して一つの形にまとむれば、大体次のようなものだったのであります。
広い空間です。明るくもなく、暗くもなく、明暗の度を全く超越した、ただの空間です。その中に、眼が一つあります。
おかしな眼です。まばたきもせず、ただじっと見開かれてる眼です。おや、目玉だけの眼です。
目玉だけの眼は、四方八方を見ています。いや見てるのではなく、向いているのです。開いてるのです。四方八方に向いて開いてる眼です。
その眼は、澄んでるのか、濁ってるのか、全く分りません。そんなことは問題でありません。ただじっと開いてる眼です。
何を見てるのでしょうか。いや、見てるのではありません。おのずから見えるのです。見通し見抜く鋭い眼ではなく、ただ何でも見える眼です。
何物でも、何事でも、その眼に映ります。いくら映っても、その眼は一杯になることがありません。底なしの眼です。次々に、あらゆることを見て取ります。見て取って、それをどうしようというのではありません。ただ見て取るだけです。
だから、なんという豊富さでしょう、なんという知識の堆積でしょう。然し、ただそれだけのことです。それを利用すれば、商売は儲かるでしょう、出世は出来ましょう。然し、それを消化して血肉にまで生かことは、出来ないのです。それは石ころを寄せ集めたようなものです。
そのような眼です。それが一つ処にいつまでもじっとしています。
重いのでしょうか、死んでるのでしょうか。死んではいません。重いのでしょう。重そうです。なんだかずっしりと重そうです。風が吹いても揺がないでしょう。
動くことが嫌いなのです。動こう
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