悲しい誤解
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鏈《くさり》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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 陽が陰るように、胸に憂欝の気が立ち罩める時がある。はっきりした原因があるのではない。ごく些細なことが寄り集まって、雲のように、心の青空を蔽うのである。すると私は生気なく、しみじみと物思う気持ちになる。今朝ほどからそうだった。――昨夜、父の友人の相手をして、ウイスキーと焼酎をしたたか飲んだ。父はこの頃少し酒をひかえているし、友人はひどい飲み助なので、私が呼ばれて相手になったのである。それから、ぐっすり眠ったのだが、夜中に、ちょっと眼を覚した。二燭の小さな電燈の淡い光りで、室内は水の中の感じだ。その水中に、娘の小さな頭と妻のもじゃもじゃした毛髪とが並んでいる。なにかもの悲しい気がして、雨戸の方へ寝返りをすると、戸外はしんしんと、露のおりる気配で、こおろぎが一匹鳴いていた。ただの一匹だ。その鳴声に私は聞き入り、また眠った。
 そのことが、朝になって思い出された。まだアルコール分が頭脳の中に残ってる心地がして、煙草もまずく、食事もまずく、ぼんやり新聞の活字を眼で追いながら、夜中のこおろぎの鳴声を心に聞いた。
 食卓の上の幾つかの小皿のものを、妻は自分も食べ、娘にも食べさしていた。まだ三つの娘は箸がよく持てず、匙を使っている。馬鈴薯の煮たのを妻がつまんでやると、娘は頭を振った。
「じゃがいもよ。好きだったでしょう。もういやなの。」
「あっち、あっち。」
 娘は他の皿の方へ手を差し出している。
「じき倦きるのね。こんどは、おいしいおいもが来ますよ。おさつ、さつまいも、知ってますね。あ、それから、やきいも、綾ちゃんはまだ食べたことがないでしょう。おいしいのよ。やきいも屋が出来るそうだから、そうしたら、たくさん買ってあげましょうね。」
 ほかほかした焼芋のことを、妻は説明してやっていた。綾子に聞かせると共に、自分自身にも聞かせてるのである。今年は焼芋屋の商売が許可されると新聞で見たのだ。
 ふっと、私は涙を誘われそうになった。単なる感傷ではない。やきいも、やきいも。そんなつまらぬ物に、何かの楽しみを見出してるらしい妻が、そしてまた恐らく、同様な楽しみを見出すだろう綾子が、憐れなのだ。この母と娘の存在そのものが、憐れなのだ。縁につながる私自身にも、その憐れさがはね返ってくる。
 鞄の中に、小風呂敷包みの弁当をつっ込んで、私は電車までの道を急いだ。やきいも、やきいもだ。今日の弁当はお汁は出ませんよ、と妻は言ったが、何がお惣菜にはいっていることやら。古ぼけたその鞄だって、勤め人の体裁に持ってるだけで、大したものは中にはいっていなかった。
 愚にもつかない事柄だが、思いようではしみじみと身にしみる、それらのことが、私の憂欝の始まりだった。この種の憂欝に沈みこみ、重い頭を強いてもたげて、おずおずと眺めると、人の世が憐れに見え、人間の姿が憐れに見える。なにか重い荷を背負い、なにか重い鏈《くさり》を引きずって、とぼとぼと歩いている、そうした感じが、我にも他人にも、誰にも、相通ずる。これを称して、ヒューメンな感情だなどと文学者は言うが、一介のサラリーマンにとっては、ヒューメンな感情ほど惨めなものはない。体力の消耗の故であろうか。精神力の消耗の故であろうか。
 身動きも出来ないほど込み合った電車で疲れ、会社の事務でまた疲れた。算用数字がやたらに並んでる紙片を、分類し系統立てて、書記の方へ回すのである。書記は黙々と謄写している。カーボン紙のインクがにじめば主任に叱られるので、ペン先きを機械のように動かしている。衝立の向うからは、タイプの音が断続的に聞えてくる。かすかな笑い声も時々するが、それだって、退屈しきってる笑い方だ。
 不思議な会社である。統計だとか、商事だとか、製作だとか、別々の会社になっているが、同じビルの中に雑居していて、大元は一つのものだ。代理販売部までもある。進駐軍関係の委託の仕事が、最近先方に接収されてしまったので、人員はだぶついている。午の休憩時間は、二時頃までだらだらと延びる。それもまた却って、こういうオフィスでは退屈の種だ。
 タイプの音が一番先に初まる。窓際に頬杖をついて、そのがちゃがちゃした音を聞いていると、私はふと、千葉に住んでる姉のことを思い出した。いつか訪れた時、姉は忙がしくミシンを踏んでいた。今年から小学校にあがった男の子があるのだ。その姉の癖まで、まざまざと見えてきた。
「敏夫さん、どう、お元気?」
 口許に大きな然しかすかな笑みを浮かべて、じっと私の方に眼を注ぐのである。
 瞼に浮かぶそういう姉の姿を、今、眺めてみると、しみじみと胸にこたえるものがあって、なにか淋しく頼りないものに思われるのだ。主人は学者であるが、特別な著述もなくて貧しく、これから先、どういう風に暮してゆくのであろうか。病気にだって罹るかも知れない。久子という名前まで、なにか儚ない感じがする。彼女の存在が既に淋しく頼りないとすれば、子供だってそうだ。あの子の今日の弁当のお惣菜には、何がはいっていたのであろうか。
「田代君、なにをにやにやしてるんだい。」
 笠原がふいに声をかけたので、私はぴくりとした。次に、彼の言葉の意味が通じると、私は狼狽した。にやにやなんかしていなかったはずだ。人間の存在の頼りなさ、血のつながりの悲しさ、そういうことをしみじみ味わっていたのだ。それから、姉の子の弁当のお惣菜のこと。私の今日の弁当には、蒲鉾にすずめ焼がはいっており、それは昨夜の酒の肴の残りものではあるが、うまかった。もしも、そのささやかな一時の幸福について、無意識にも私が笑みを浮かべていたとすれば、何たることだろう。
 私は眉をしかめて振り向いた。そして、こんどは意識して、憂欝な笑みを浮かべた。
「原子爆弾なんか、どうだっていいさ。僕には何の関係もない。」
 私はぼんやり、原子爆弾の話を笠原たちがしているのを、耳に入れていた。ソヴィエトが原子爆弾を所有していることが世界に公表され、国際政局に新たな波紋が描かれてきた、そういう新聞記事が一般の話題になってる時だ。然し誰の意見も、新聞記事の埓外には出ず、つまらぬ臆測をこね廻してるに過ぎなかった。そして不思議なことには、原子爆弾を怖れながらも、戦争を望むかのような気分が漂っていたのである。日本は戦争の当事者ではないから、もう原子爆弾は落されない、という想定のもとに、戦争は起るかも知れないと冷淡に忖度してるのである。平和はどこへ行ったのであろうか。
「それでも、戦争はどうなんだい。」と笠原は言う。
「戦争だって、僕には何の関係もないさ。」
 私の憂欝は皮肉になり、私はもうそれきり口を利かず、自分のデスクに戻った。
 横手の席が空いていた。堀田の席だ。専務に呼ばれたきり、長く戻って来なかった。おかしな男である。事務が粗漏でそして怠慢、というのが彼に対する重役連中の一致した意見だ。しばしば叱責されたが、いつも彼は平然としていた。朝の出社に遅れることはあっても、夕方の帰りを急ぐことはなかった。口数が少く、ものぐさで、ひとを喰ったようなところがある。
 その堀田が、ふだんから蒼白い顔を、なおすこし蒼ざめさして、席に戻って来た。卓上に肱をつき、へんな苦笑を浮かべて、煙草を吹かした。
「どうしたんだい。」出しゃ張りの笠原が真先に尋ねた。
「なあに、円満辞職の勧告だよ。」そして彼はまた苦笑した。
 その苦笑が、実に変梃なのだ。私はそのような苦笑をめったに見たことがない。彼は髪の毛を短かめに刈り込み、強度の近眼のため目玉が飛び出してるように見え、頬は蒼白いが肉附が厚ぼったく、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]は円く短い。その頬に、ゆらゆらと震えるような皺を軽く刻み、飛び出てる目玉を据えたまま、一文字に結んだ口を長く引き伸し、鼻下をへんにくしゃくしゃにして、苦笑したのである。そのまま待ち続けても[#「待ち続けても」は底本では「持ち続けても」]、笑い出しもすまいし、泣き出しもすまいし、ただ屈辱に甘んじてるだけの、卑屈な印象を与える。その苦笑はすぐに消えたが、私の心に暗い影を投げ入れた。
 堀田は煙草を吹かしている。誰も暫く口を利かなかった。やがて笠原がまた尋ねた。
「君は、それを承知したのかい。」
 堀田は笠原の方を向かず、窓の方を見ながら答えた。
「饒舌るだけ饒舌らせて、最後に承知してやった。どうせ、僕が首切られることは分っている。退職金でも貰って、職場転換だな。」
 馘首流行の時代だ。政府の方でも人員整理。民間でも人員整理。そしてこの会社でも既にそれに着手しているし、われわれの室では堀田が槍玉にあがることは、暗黙のうちに分っていた。従業員組合というものが出来てはいるが、規約などもいい加減なもので、この会社のような形体では、経営者側に対しては全然無力なのだ。その上先方には、他の姉妹会社へ転任させて苦境に立たせるという手段もある。この職場転換には、一ヶ月ほど前、同僚の原野がすっかり困却した例がある。堀田はいま、職場転換だとうまいことを言った。
 だが、彼はこれからどうするつもりなのであろうか。退職金とて、五万かせいぜい十万に過ぎないだろう。そんな金で何が出来るものか。彼には妻と二人の子供がある。財産はないらしい。或は前々から何等かの心算があったのかも知れないが、それとて覚束ないものではあるまいか。すべてが覚束ないのだ。もう書類の整理などを彼は始めているが、その彼を、彼の存在を、横目でちらと眺めてみて、覚束ないと私は感じた。
 室全体の雰囲気が、鬱陶しく、そしてもの悲しいのだ。誰の仕業か、窓際の小卓に野菊の一鉢が置いてある。萎れかかった薄紅い花群に、蝿が二つ三つじっととまっている。花はやがて枯れてゆくだろう。蝿はやがて飛べなくなってしまうだろう。
 私は仕事を投げ出して、煙草を吹かした。言い合わしたように、皆が煙草を吹かしていた。そのくせ、誰も黙っていて、互に顔をそむけてるのである。
 一枚の通牒が廻ってきた。主任梅田の署名で、読後に各自サインをしてくれとの注意がしてある。
 ――今日堀田君は、専務から円満辞職を勧告されて、承諾したそうである。今後も、斯かる事態はあり得ることと予想される。就ては、われわれはわれわれのポストを強化するため、明日正午から一時までの休憩時間に、われわれだけの懇談会を開くことにしたい。もれなく出席されるよう希望する。なお、この際、円満辞職を聊かなりとも望まれる向は、考慮の上、明日午前中、小生まで内々申出でを願う。斯くすることによって、不本意なる円満辞職の強制を無くし、各自安心して職務に勉励出来るようにしたいのである。懇談会の儀、お忘れなきよう。以上。
 おかしな通牒だ。これに、堀田もサインして、あの卑屈な苦笑を浮かべたのを、私はちらと見て、眼を外らした。腹が立つよりも寧ろ、情けなかった。
 時間が実にのろのろたってゆく。退出時刻になると、私は待ちかまえていて真先に立ち上った。
 往来に出て、斜陽を浴び、初めて大きく息がつけた。ところが、笠原が私を追っかけてきた。
「ちょっと、一杯つき合わないか。」
 私は眉をしかめて、黙っていた。
「焼酎にしようか、ビールにしようか。金は僕が持ってるよ。」
 彼はいつも奇妙に金を持ってるのである。独りでビヤホールにきめて、途中でウイスキーの小瓶を買った。ジョッキーにウイスキーをたらして飲むけちなやり方を、彼は却って得意がってるのだ。
 秋の凉気に、ビヤホールはすいていた。
「君はどう思う、今日の梅田の通牒を。」
 彼は腹立たしげにビールをあおった。私の無関心な態度に、彼はなおいきり立ったようだ。
「懇談会とは何だい。なぜ組合会議としないのか。円満辞職を聊かなりとも……ばかな、こ
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