の失業時代に、聊かなりとも望む奴があるものか。何のことはない、退職希望者を無理にも拵え出して、人員整理に協力しようというわけだ。あいつ一人の考えじゃないね。専務と共謀の芝居に違いない。」
それから彼はいろいろなことを饒舌った。組合運動などと言っても、オフィスの中に幽閉されてるわれわれは、まるで虚勢されてるのと同じで、何にも出来はしない。会社全体の実情だって、われわれには何にも分らない。会社全体が赤字かどうかも疑問で、現に、三階の広間は、壁が新らしく塗りかえられ、豪奢な椅子卓子が据えつけられて、会社が新たに何を目論でるのか、われわれには見当もつかない。われわれには……われわれには……。
彼の話を聞いていると、われわれの連発ばかりで、それが哀訴するように響き、へんにもの悲しくなる。愚痴ではなく、憤慨してるのだが、それならば、彼自身、いったいどう動くつもりなのか。
「明日の懇談会には、僕たちで、爆弾を投じてやろうじゃないか。」
僕たち……やはり、単数の僕ではなかった。力は団結から出て来るものだが、団結は個々の意志に依るものでなければならない。その根本のものが、私たちには欠けてるようだった。ただ、彼は朗かであり、私は憂鬱だ。憂鬱の底から眺めると、彼の朗かさも人形のそれのようで、同情の念も湧かず、それがますます私を淋しくさせた。
「堀田のやつ、けちな退職金なんかで、どうするつもりかなあ。」
朗かな笠原には、堀田に同情する余裕があったのだ。
「やきいも屋ぐらい出来るさ。」と私は言った。
「なに、やきいも……。」
「やきいも屋だ、やきいも屋だ。」
淋しさが毒舌になってゆき、その毒舌が、しみじみと自分の心にしみた。
ジョッキーを何杯か、そしてウイスキーの小瓶も空になり、私は笠原と別れた。
暗い夜、掘割のふちを歩いていると、空の星が水面に降ってくるようで、なにか怯えた気持ちになる。
その都心近くから、国鉄電車に乗り、途中で私鉄電車に乗り換えて、そして家まで、だいぶ時間がかかるのだ。
乗換え駅の裏口のそばに、よい日本酒を安直に飲ませる家がある。盛りきりのコップでも、銚子に盃でも、どちらでもよい。宵のうちは客が込むが、遅くなると閑散だ。私は中途半端に飲んだ時とか、なにかやりきれない気持ちの時とか、そこに立寄る癖がついていた。
ふらりと飛びこむと、客は少なかった。
「いらっしゃい。今晩、遅いのね。」
みさ子はにこりともしないが、声の調子は愛想がいい。
「やあ、しばらく。」
「あら、しばらくだって……もう酔ってらっしゃるの。」
考えてみると、一昨日も、その前日も、ちょっと寄ったのだった。だが、どうも、しばらくというのが実感なのだ。すべてのことが、遠くにあるように思われた。みさ子だって、さよ子だって、遠くに見える。憂鬱とは、自分と外界とを距てる霧だ。
みさ子は相変らず、そうだ、一昨日と相変らず、鼻の高い細長い顔で、睫毛の影の濃い眼眸をして、背が高く痩せている。戦争未亡人でこの家の中年のお上さんの片腕となっている。笑顔はあまり見せないが、声は調子がいい。客たちからはみさ子さんと呼ばれる。紫を主調にした縞模様の着物だ。
さよ子は相変らず、丸い顔で、よく肥っていて、いつもにこにこしている。少し近眼らしい眼眸だが、眼鏡はかけていない。戦争中、埼玉県下から徴用女工として東京に出て来て、そのまま居ついて女給になったのである。客たちからはさよちゃんと呼ばれる。赤を主調にした花模様の着物だ。
彼女たちを珍しく見るような気持で眺めながら、私はコップの酒をすすった。そして心では、他のものを眺めていた。――今頃、綾子はどうしていることだろうか。妻はどうしていることだろうか。姉はどうしているだろうか。姉の子はどうしているだろうか。堀田はあれからどうしただろうか。笠原はまだどこかで飲んでるだろうか。それから誰それは……。誰それは……。それらの影像が、霧を通してのように、現われては消え、消えては現われる。不思議と、父の姿も姉の家の義母の姿もすべて老人たちの姿は心に写らない。老人と若い者とは縁が遠いのであろうか。いや、老人はなにか生活的にしっかり根を下しているのだ。若い人々こそ、将来の長い生涯が不安定で、頼りなく憐れなのだ。若いサラリーマンは憐れだ。生活的に自立していない人々が、世の中になくならないものか。
ちきしょう。私はコップをスタンドの上にとんと叩いた。
「もう一杯。」
「そんなに……悪酔いしますよ。お盃になさいよ。」
みさ子が言い、さよ子が用をして、銚子と盃を私のところへ出し、にこっと笑った。
私に思いやりを寄せてるのだ。すると、私も憐れなのであろうか。ばかな、彼女たちの方こそ憐れじゃないか。戦争未亡人だの、女工上りだの、いくら取り澄したって、こんなところに働いていて、どこに拠りどころが、頼りどころがあるのか。
「ねえ、みさ子さん、さよちゃんもよ、こんなところやめちまえよ。」
「あら、どうして?」
「いいことを教えてやろう。やきいも屋を初めるんだ。」
「やきいも屋……。」
みさ子は珍らしく笑った。
「今年は、さつまいもが沢山出来てるんだぜ。あり余るほど出来てる。そこで、やきいも屋も初めるんだ。ほかほかの焼きたて……面白いじゃないか。」
「そんなもの、買う人があるでしょうか。」
みさ子はもう上の空の言葉だ。分らないのである。
「誰でも買うさ。珍らしいからね。おいしく焼いて、子供たちに安く売ってやれよ。女の子や男の子、小学校の生徒たちに、売ってやれよ。女学生にも売ってやれよ。若いお上さん、若い奥さん、みんなに売ってやれよ。そこから、人生の幸福が初まるんだ。」
私は悲しくなって、盃の上に顔を伏せた。
「まあ、たいへんな幸福ね。」
「そうさ。やきいもから幸福が初まる。だから僕は悲しいんだ。こんな、酒場なんかやめちまえ。やきいも屋になるんだ。ほかほかの焼きたて、幸福そのものじゃないか。」
みさ子は気を入れてじっと私を眺めた。私は顔が挙げられない気持ちだ。
「やきいもと、お酒と、なにか関係がありますの。」
「関係なんかあるもんか。酒なんてものは、酒なんて……飲むやつはみんなばかだ。幸福からの落伍者だ。そして、思い上りだ。やきいも……ただやきいもさ。」
私は一息に盃を干して、あとを銚子からつぐと、酒は溢れて、スタンドの上を流れ走った。その行方を見ていると、そこに、薄茶色のしなやかな革の手袋があって、それに酒が少し触れた。さよ子が駆け寄って手袋の露を払い、スタンドを布巾で拭いた。
今頃、十月にはいったばかりなのに、手袋はおかしい。手袋を受け取った男を見ると、いつはいって来たのか、黒のダブルの上衣に、赤っぽいネクタイをしめ、色眼鏡をかけた、長髪の若者なのだ。私をじろじろ眺めた。
「焼芋の先生、ひとの持ち物をよごしておいて、何か、挨拶がありそうなもんじゃねえか。」
まだ酔ってはいないらしい。
「まあ、酒でも飲もうよ。」
「何を。焼芋の肴で酒が飲めるか、挨拶はこうするもんだ。」
すばらしい早業だった。私は横面に平手の一撃を受けて、椅子から転げ落ち、尻もちをついた。頬に音はしたようだが、痛みはあまり感じなかった。相手が心して殴ったのであろうか。とっさにそのことを思って、私はとても惨めになった。よろよろと立ち上り、スタンドにつかまって、自分でも不敵なと思えるほどの卑屈な微笑を浮かべ、彼の方をじいっと見つめた。彼は一瞥しただけで、私から眼を外らした。みさ子がスタンド越しに彼の腕を捉えていたが、その手を彼は静かにはずし、紙幣を二枚投げ出し、私の方へはもう目もくれずに、悠々と出て行った。
「お怪我はなさらなかったの。あのひと、怖いのよ。」
みさ子が囁くように言ったのへ、私はまた卑屈な微笑を返した。
「一緒に飲みたかったんだ。あの男の分も飲んでやるぞ。」
虚勢を張るほど、ますます惨めになるばかりだ。中年の二人連れの客が、素知らぬ顔をして何か話しこんでいた。
私は腰がふらついて落着けなかった。さよ子が手をかしてくれて、横手の三畳の小室に私はあがった。
時間が途切れ途切れになったような、明滅する意識のなかで、私はさきほどの、自分の卑屈な微笑を自分で味っていた。今になってみると、もう惨めでもなんでもなく、却って安らかな和らぎさえも覚えるのである。憂鬱の底へと沈み沈み、落着くところへ落着いた感じだ。
それと共に、ふっと、堀田の卑屈な苦笑が浮んでくる。それが、私の微笑と重なり合ったりずれたりする。いずれにしても、二つは確かに違っていた。彼のは苦笑であった。私のは微笑であった。どこにその違いはあるのか。いくら詮索しても、智慧の輪解きのようなもので、手掛りはない。
下らないことだ。酔った頭脳の戯れだ。そう気がついて、寝そべってたのを、むっくり起き上ってみた。
小さな食卓の上に、銚子と盃があり、海苔巻きの鮨を盛った中皿が一つあった。酒の方は分るが、鮨はどうしたのであろう。私が註文したのだろうか。黒く光ってる海苔の肌が、たまらなく淋しく、私は盃を取り上げた。
突然、びくっとしたほど突然、さよ子が音もなくはいって来た。番茶の土瓶を持って来たのだ。
「お酒はもう毒よ。お鮨をあがるといいわ。」
茶碗に、湯気のたつ熱い茶をついでくれた。悲しさが突発して、私は身内が震えた。肥った彼女ににじり寄って、その膝に顔を伏せ、更に寄り縋って、その胸に顔を埋めた。静かに坐ってる彼女の肉体が、ぴくりぴくりと動き、それから温く私を包みこんでくれた。
「僕は悲しいんだよ。泣きたいんだよ。」
言葉と一緒に、ほんとに涙が出て来た。
「君はだれだい。あ、さよちゃんか。」
私はまた泣いた。
「ね、分ってくれるね。僕は淋しく悲しいんだ。人間てものが、悲しいんだ。胸に何か、愛情みたいなものが、いっぱいたまってきて、それを誰かに訴えたいんだ。」
「いや、大きな声をなすっちゃいやよ。」
「うん、分ってる、分ってる。」
私は彼女になお縋りついてゆく。
「誰かに訴えたいんだ。この胸いっぱいの愛情を、誰かに訴えたいんだ。でも、誰も彼も、みんな遠くにいて、僕は一人ぽっちだ。君は……あ、さよちゃんか。分ってくれるね。この気持ち、分ってくれるね。」
「また、大きな声をなすっちゃいや。」
私は声をひそめて言う。
「君は温かいね。ほんとに温かいよ。僕も君のように温かになりたい。僕を温めてくれ、もっと温めてくれよ。離しちゃいけないよ。僕はもう君を離さないよ。」
私は彼女に縋りつき、その胴を、腰を、抱きしめ、その胸に顔を埋めて、涙を流した。彼女は私の上にかぶさるようにして、じっとしている。その胸の動悸が聞え、呼吸の熱さが感ぜられる。だが私自身は動悸も消えてゆき、呼吸も消えてゆくようで、ただ涙だけが熱いのだ。私は彼女の袖口から手を差し入れて、腕の肌をさぐった。
「冷たい手ね。」
「そうだ、手も冷たいし、体も冷たいんだ。君は温かいよ。僕を温めてくれ。」
彼女に縋りついたまま、気が遠くなるようだった。
「さよちゃん。」
みさ子の澄みきった声だ。私は我に返って、身を起した。さよ子は私の手をじっと握って、立って行った。なにか駭然とした思いで、私は酒を飲んだ。さよ子はすぐ戻ってきて、電車の時間のことを言う。そうだった、終電車に後れたら私は帰宅出来ないのだ。夢から覚めたように私は気がはっきりして、靴をはいた。
駅のフォームに駆け上ると、急に酔いがぶり返して、ふらふらした。電車の時刻までにはまだだいぶ間があった。フォームの先端まで行き、屈みこんで息をついた。
高架線になっていて、レールがそこの地面と共に宙に浮き上った感じである。赤や青の信号燈が点在して、大きな星が地上に降りてきたかのようである。それから先は空漠たる闇夜だ。見つめていると、巨大な物象が浮び上る。それが、近くまで迫ってきては、煙のように消える。偉大な車輪か、壮大な歯車か、広大なベルトか、強力なモーターか、飛行機のプロペラか、いやそれら
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