のすべてだ。逞ましい速度で回転しながら、しかも音は立てず、ずずっと押し寄せてきては、跡形もなく消えてゆく……。眩暈に似ている。
「田代さん。」
 たしかに声がして、振り向くと、さよ子が立っていた。幻影ではない。
「どうしたんだい。」
「あぶないから、ついて来たのよ。」
 そんなはずはないのだが、然し、眼の前に立っているのだ。
 何とも口が利けなかった。
 彼女は私のそばに、寄り添って屈み、私の肩に身をもたせかけた。
「明日にでも、また来てね。今晩はだめだけれど……いつだっていいわ。ね、どこかに連れていって。旅行したいわ。」
 いったい、何を言ってるのか。何を考えてるのか。私は薄暗い中に眼を見張って、彼女の方を顧みると、彼女はにこりともせず、真剣な面持ちだ。
「でも、悪いかしら。あなたには、奥さまもあるのでしょう。あたしはかまわないけれど……。いいわ、あなたを信じます。あたしも信じてね。」
 何ということだろう。私は自分をも、彼女をも、殴りつけ踏みにじりたかった。
 彼女の体温が心に蘇ってきた。然し、それは誰の体温でもよかったのだ。彼女の体温とは限らないのだった。ただ然し、孤愁の底に沈んでる心の思いを打ち明けるのには、彼女が最も恰好な相手だったろう。あのようなことを、誰に向ってよく言えたであろうか。妻にも、みさ子にも、姉にも、男性には勿論、会社のタイピストにも、そのへんのパンパンにも、言えるものではない。言えばばからしくなるばかりだ。それを、さよ子には泣きながら言えた。酔いつぶれていたから、なんかではない。やはり、彼女の体温が誰のものでもなかったと同じく、彼女は私にとって誰でもなかったのであろう。誰でもない、それはいったい何を意味するのか。私がキス一つ求めなかったのは、何を意味するのか。彼女は私にとって、ただ人間だったに過ぎない。
 それだからと言って、彼女にとっては、私はただ人間だけではなかった。田代敏夫という一個の男だったのだ。
 私は立ち上った。
「大丈夫だよ。心配しないでもいい。」
 そして彼女の手を握って打ち振ってやったが、その手もすぐに離した。
 ばかな、なにが大丈夫なのか。私の気持ち、彼女に話したって到底理解されまい。
 わーっと叫びたいのを押えて、大きく息を吐いた。何度も息を吐いた。自分ながら酒くさい。鞄ごと両手を大きく打ち振り、大股に歩き廻った。
 フォームに電車が来た。発車間際に私は飛び乗って、窓硝子越しに、さよ子を見た。そこに佇んでこちらを見上げてる丸い顔は、まるで表情を忘れたもののようで、ただ仄白く浮き出していた。
 電車はわりにすいていた。私は腰掛けに身を落して、両腕を組み顔を伏せた。
 誤解、ということで私は責を遁れようとは思わない。然し、誤解とすれば、なんと悲しい誤解だろう。どうしたら解決がつけられるか。
 私の憂鬱は深まるばかりだ。これは人間そのものの憂鬱のようだ。これを追い払うには、人間を廃棄するか、それとも、それとも……。あ、駅のフォームで見た闇の中の巨大な幻影、あんなものに乗っかって、自分を新たに造り直すことだ。
 考えてるうちに、私は酒くさい欠伸が出て、自分でも呆れた。けれど、それさえ普通のと違って、憂鬱な欠伸だった。極りがわるく、情けなく、自分で自分が頼りなかった。
 電車を降りて、私は真直に家へ帰らず、その辺を歩き回り、野原につっ伏して泣いた。たしかに今日はどうかしている。しかしこんな時こそ、心がむき出しになるのだ。私は自分のむきだしな心が痛々しかった。



底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「女性改造」
   1949(昭和24)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年11月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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