楽しみを見出してるらしい妻が、そしてまた恐らく、同様な楽しみを見出すだろう綾子が、憐れなのだ。この母と娘の存在そのものが、憐れなのだ。縁につながる私自身にも、その憐れさがはね返ってくる。
鞄の中に、小風呂敷包みの弁当をつっ込んで、私は電車までの道を急いだ。やきいも、やきいもだ。今日の弁当はお汁は出ませんよ、と妻は言ったが、何がお惣菜にはいっていることやら。古ぼけたその鞄だって、勤め人の体裁に持ってるだけで、大したものは中にはいっていなかった。
愚にもつかない事柄だが、思いようではしみじみと身にしみる、それらのことが、私の憂欝の始まりだった。この種の憂欝に沈みこみ、重い頭を強いてもたげて、おずおずと眺めると、人の世が憐れに見え、人間の姿が憐れに見える。なにか重い荷を背負い、なにか重い鏈《くさり》を引きずって、とぼとぼと歩いている、そうした感じが、我にも他人にも、誰にも、相通ずる。これを称して、ヒューメンな感情だなどと文学者は言うが、一介のサラリーマンにとっては、ヒューメンな感情ほど惨めなものはない。体力の消耗の故であろうか。精神力の消耗の故であろうか。
身動きも出来ないほど込み合っ
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