ないものではあるまいか。すべてが覚束ないのだ。もう書類の整理などを彼は始めているが、その彼を、彼の存在を、横目でちらと眺めてみて、覚束ないと私は感じた。
 室全体の雰囲気が、鬱陶しく、そしてもの悲しいのだ。誰の仕業か、窓際の小卓に野菊の一鉢が置いてある。萎れかかった薄紅い花群に、蝿が二つ三つじっととまっている。花はやがて枯れてゆくだろう。蝿はやがて飛べなくなってしまうだろう。
 私は仕事を投げ出して、煙草を吹かした。言い合わしたように、皆が煙草を吹かしていた。そのくせ、誰も黙っていて、互に顔をそむけてるのである。
 一枚の通牒が廻ってきた。主任梅田の署名で、読後に各自サインをしてくれとの注意がしてある。
 ――今日堀田君は、専務から円満辞職を勧告されて、承諾したそうである。今後も、斯かる事態はあり得ることと予想される。就ては、われわれはわれわれのポストを強化するため、明日正午から一時までの休憩時間に、われわれだけの懇談会を開くことにしたい。もれなく出席されるよう希望する。なお、この際、円満辞職を聊かなりとも望まれる向は、考慮の上、明日午前中、小生まで内々申出でを願う。斯くすることによって、不本意なる円満辞職の強制を無くし、各自安心して職務に勉励出来るようにしたいのである。懇談会の儀、お忘れなきよう。以上。
 おかしな通牒だ。これに、堀田もサインして、あの卑屈な苦笑を浮かべたのを、私はちらと見て、眼を外らした。腹が立つよりも寧ろ、情けなかった。
 時間が実にのろのろたってゆく。退出時刻になると、私は待ちかまえていて真先に立ち上った。
 往来に出て、斜陽を浴び、初めて大きく息がつけた。ところが、笠原が私を追っかけてきた。
「ちょっと、一杯つき合わないか。」
 私は眉をしかめて、黙っていた。
「焼酎にしようか、ビールにしようか。金は僕が持ってるよ。」
 彼はいつも奇妙に金を持ってるのである。独りでビヤホールにきめて、途中でウイスキーの小瓶を買った。ジョッキーにウイスキーをたらして飲むけちなやり方を、彼は却って得意がってるのだ。
 秋の凉気に、ビヤホールはすいていた。
「君はどう思う、今日の梅田の通牒を。」
 彼は腹立たしげにビールをあおった。私の無関心な態度に、彼はなおいきり立ったようだ。
「懇談会とは何だい。なぜ組合会議としないのか。円満辞職を聊かなりとも……ばかな、この失業時代に、聊かなりとも望む奴があるものか。何のことはない、退職希望者を無理にも拵え出して、人員整理に協力しようというわけだ。あいつ一人の考えじゃないね。専務と共謀の芝居に違いない。」
 それから彼はいろいろなことを饒舌った。組合運動などと言っても、オフィスの中に幽閉されてるわれわれは、まるで虚勢されてるのと同じで、何にも出来はしない。会社全体の実情だって、われわれには何にも分らない。会社全体が赤字かどうかも疑問で、現に、三階の広間は、壁が新らしく塗りかえられ、豪奢な椅子卓子が据えつけられて、会社が新たに何を目論でるのか、われわれには見当もつかない。われわれには……われわれには……。
 彼の話を聞いていると、われわれの連発ばかりで、それが哀訴するように響き、へんにもの悲しくなる。愚痴ではなく、憤慨してるのだが、それならば、彼自身、いったいどう動くつもりなのか。
「明日の懇談会には、僕たちで、爆弾を投じてやろうじゃないか。」
 僕たち……やはり、単数の僕ではなかった。力は団結から出て来るものだが、団結は個々の意志に依るものでなければならない。その根本のものが、私たちには欠けてるようだった。ただ、彼は朗かであり、私は憂鬱だ。憂鬱の底から眺めると、彼の朗かさも人形のそれのようで、同情の念も湧かず、それがますます私を淋しくさせた。
「堀田のやつ、けちな退職金なんかで、どうするつもりかなあ。」
 朗かな笠原には、堀田に同情する余裕があったのだ。
「やきいも屋ぐらい出来るさ。」と私は言った。
「なに、やきいも……。」
「やきいも屋だ、やきいも屋だ。」
 淋しさが毒舌になってゆき、その毒舌が、しみじみと自分の心にしみた。

 ジョッキーを何杯か、そしてウイスキーの小瓶も空になり、私は笠原と別れた。
 暗い夜、掘割のふちを歩いていると、空の星が水面に降ってくるようで、なにか怯えた気持ちになる。
 その都心近くから、国鉄電車に乗り、途中で私鉄電車に乗り換えて、そして家まで、だいぶ時間がかかるのだ。
 乗換え駅の裏口のそばに、よい日本酒を安直に飲ませる家がある。盛りきりのコップでも、銚子に盃でも、どちらでもよい。宵のうちは客が込むが、遅くなると閑散だ。私は中途半端に飲んだ時とか、なにかやりきれない気持ちの時とか、そこに立寄る癖がついていた。
 ふらりと飛びこむと、客は少なかった。

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