いらっしゃい。今晩、遅いのね。」
みさ子はにこりともしないが、声の調子は愛想がいい。
「やあ、しばらく。」
「あら、しばらくだって……もう酔ってらっしゃるの。」
考えてみると、一昨日も、その前日も、ちょっと寄ったのだった。だが、どうも、しばらくというのが実感なのだ。すべてのことが、遠くにあるように思われた。みさ子だって、さよ子だって、遠くに見える。憂鬱とは、自分と外界とを距てる霧だ。
みさ子は相変らず、そうだ、一昨日と相変らず、鼻の高い細長い顔で、睫毛の影の濃い眼眸をして、背が高く痩せている。戦争未亡人でこの家の中年のお上さんの片腕となっている。笑顔はあまり見せないが、声は調子がいい。客たちからはみさ子さんと呼ばれる。紫を主調にした縞模様の着物だ。
さよ子は相変らず、丸い顔で、よく肥っていて、いつもにこにこしている。少し近眼らしい眼眸だが、眼鏡はかけていない。戦争中、埼玉県下から徴用女工として東京に出て来て、そのまま居ついて女給になったのである。客たちからはさよちゃんと呼ばれる。赤を主調にした花模様の着物だ。
彼女たちを珍しく見るような気持で眺めながら、私はコップの酒をすすった。そして心では、他のものを眺めていた。――今頃、綾子はどうしていることだろうか。妻はどうしていることだろうか。姉はどうしているだろうか。姉の子はどうしているだろうか。堀田はあれからどうしただろうか。笠原はまだどこかで飲んでるだろうか。それから誰それは……。誰それは……。それらの影像が、霧を通してのように、現われては消え、消えては現われる。不思議と、父の姿も姉の家の義母の姿もすべて老人たちの姿は心に写らない。老人と若い者とは縁が遠いのであろうか。いや、老人はなにか生活的にしっかり根を下しているのだ。若い人々こそ、将来の長い生涯が不安定で、頼りなく憐れなのだ。若いサラリーマンは憐れだ。生活的に自立していない人々が、世の中になくならないものか。
ちきしょう。私はコップをスタンドの上にとんと叩いた。
「もう一杯。」
「そんなに……悪酔いしますよ。お盃になさいよ。」
みさ子が言い、さよ子が用をして、銚子と盃を私のところへ出し、にこっと笑った。
私に思いやりを寄せてるのだ。すると、私も憐れなのであろうか。ばかな、彼女たちの方こそ憐れじゃないか。戦争未亡人だの、女工上りだの、いくら取り澄したって、こんなところに働いていて、どこに拠りどころが、頼りどころがあるのか。
「ねえ、みさ子さん、さよちゃんもよ、こんなところやめちまえよ。」
「あら、どうして?」
「いいことを教えてやろう。やきいも屋を初めるんだ。」
「やきいも屋……。」
みさ子は珍らしく笑った。
「今年は、さつまいもが沢山出来てるんだぜ。あり余るほど出来てる。そこで、やきいも屋も初めるんだ。ほかほかの焼きたて……面白いじゃないか。」
「そんなもの、買う人があるでしょうか。」
みさ子はもう上の空の言葉だ。分らないのである。
「誰でも買うさ。珍らしいからね。おいしく焼いて、子供たちに安く売ってやれよ。女の子や男の子、小学校の生徒たちに、売ってやれよ。女学生にも売ってやれよ。若いお上さん、若い奥さん、みんなに売ってやれよ。そこから、人生の幸福が初まるんだ。」
私は悲しくなって、盃の上に顔を伏せた。
「まあ、たいへんな幸福ね。」
「そうさ。やきいもから幸福が初まる。だから僕は悲しいんだ。こんな、酒場なんかやめちまえ。やきいも屋になるんだ。ほかほかの焼きたて、幸福そのものじゃないか。」
みさ子は気を入れてじっと私を眺めた。私は顔が挙げられない気持ちだ。
「やきいもと、お酒と、なにか関係がありますの。」
「関係なんかあるもんか。酒なんてものは、酒なんて……飲むやつはみんなばかだ。幸福からの落伍者だ。そして、思い上りだ。やきいも……ただやきいもさ。」
私は一息に盃を干して、あとを銚子からつぐと、酒は溢れて、スタンドの上を流れ走った。その行方を見ていると、そこに、薄茶色のしなやかな革の手袋があって、それに酒が少し触れた。さよ子が駆け寄って手袋の露を払い、スタンドを布巾で拭いた。
今頃、十月にはいったばかりなのに、手袋はおかしい。手袋を受け取った男を見ると、いつはいって来たのか、黒のダブルの上衣に、赤っぽいネクタイをしめ、色眼鏡をかけた、長髪の若者なのだ。私をじろじろ眺めた。
「焼芋の先生、ひとの持ち物をよごしておいて、何か、挨拶がありそうなもんじゃねえか。」
まだ酔ってはいないらしい。
「まあ、酒でも飲もうよ。」
「何を。焼芋の肴で酒が飲めるか、挨拶はこうするもんだ。」
すばらしい早業だった。私は横面に平手の一撃を受けて、椅子から転げ落ち、尻もちをついた。頬に音はしたようだが、痛みはあまり感じなか
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