った。相手が心して殴ったのであろうか。とっさにそのことを思って、私はとても惨めになった。よろよろと立ち上り、スタンドにつかまって、自分でも不敵なと思えるほどの卑屈な微笑を浮かべ、彼の方をじいっと見つめた。彼は一瞥しただけで、私から眼を外らした。みさ子がスタンド越しに彼の腕を捉えていたが、その手を彼は静かにはずし、紙幣を二枚投げ出し、私の方へはもう目もくれずに、悠々と出て行った。
「お怪我はなさらなかったの。あのひと、怖いのよ。」
 みさ子が囁くように言ったのへ、私はまた卑屈な微笑を返した。
「一緒に飲みたかったんだ。あの男の分も飲んでやるぞ。」
 虚勢を張るほど、ますます惨めになるばかりだ。中年の二人連れの客が、素知らぬ顔をして何か話しこんでいた。
 私は腰がふらついて落着けなかった。さよ子が手をかしてくれて、横手の三畳の小室に私はあがった。

 時間が途切れ途切れになったような、明滅する意識のなかで、私はさきほどの、自分の卑屈な微笑を自分で味っていた。今になってみると、もう惨めでもなんでもなく、却って安らかな和らぎさえも覚えるのである。憂鬱の底へと沈み沈み、落着くところへ落着いた感じだ。
 それと共に、ふっと、堀田の卑屈な苦笑が浮んでくる。それが、私の微笑と重なり合ったりずれたりする。いずれにしても、二つは確かに違っていた。彼のは苦笑であった。私のは微笑であった。どこにその違いはあるのか。いくら詮索しても、智慧の輪解きのようなもので、手掛りはない。
 下らないことだ。酔った頭脳の戯れだ。そう気がついて、寝そべってたのを、むっくり起き上ってみた。
 小さな食卓の上に、銚子と盃があり、海苔巻きの鮨を盛った中皿が一つあった。酒の方は分るが、鮨はどうしたのであろう。私が註文したのだろうか。黒く光ってる海苔の肌が、たまらなく淋しく、私は盃を取り上げた。
 突然、びくっとしたほど突然、さよ子が音もなくはいって来た。番茶の土瓶を持って来たのだ。
「お酒はもう毒よ。お鮨をあがるといいわ。」
 茶碗に、湯気のたつ熱い茶をついでくれた。悲しさが突発して、私は身内が震えた。肥った彼女ににじり寄って、その膝に顔を伏せ、更に寄り縋って、その胸に顔を埋めた。静かに坐ってる彼女の肉体が、ぴくりぴくりと動き、それから温く私を包みこんでくれた。
「僕は悲しいんだよ。泣きたいんだよ。」
 言葉と一緒に、ほんとに涙が出て来た。
「君はだれだい。あ、さよちゃんか。」
 私はまた泣いた。
「ね、分ってくれるね。僕は淋しく悲しいんだ。人間てものが、悲しいんだ。胸に何か、愛情みたいなものが、いっぱいたまってきて、それを誰かに訴えたいんだ。」
「いや、大きな声をなすっちゃいやよ。」
「うん、分ってる、分ってる。」
 私は彼女になお縋りついてゆく。
「誰かに訴えたいんだ。この胸いっぱいの愛情を、誰かに訴えたいんだ。でも、誰も彼も、みんな遠くにいて、僕は一人ぽっちだ。君は……あ、さよちゃんか。分ってくれるね。この気持ち、分ってくれるね。」
「また、大きな声をなすっちゃいや。」
 私は声をひそめて言う。
「君は温かいね。ほんとに温かいよ。僕も君のように温かになりたい。僕を温めてくれ、もっと温めてくれよ。離しちゃいけないよ。僕はもう君を離さないよ。」
 私は彼女に縋りつき、その胴を、腰を、抱きしめ、その胸に顔を埋めて、涙を流した。彼女は私の上にかぶさるようにして、じっとしている。その胸の動悸が聞え、呼吸の熱さが感ぜられる。だが私自身は動悸も消えてゆき、呼吸も消えてゆくようで、ただ涙だけが熱いのだ。私は彼女の袖口から手を差し入れて、腕の肌をさぐった。
「冷たい手ね。」
「そうだ、手も冷たいし、体も冷たいんだ。君は温かいよ。僕を温めてくれ。」
 彼女に縋りついたまま、気が遠くなるようだった。
「さよちゃん。」
 みさ子の澄みきった声だ。私は我に返って、身を起した。さよ子は私の手をじっと握って、立って行った。なにか駭然とした思いで、私は酒を飲んだ。さよ子はすぐ戻ってきて、電車の時間のことを言う。そうだった、終電車に後れたら私は帰宅出来ないのだ。夢から覚めたように私は気がはっきりして、靴をはいた。
 駅のフォームに駆け上ると、急に酔いがぶり返して、ふらふらした。電車の時刻までにはまだだいぶ間があった。フォームの先端まで行き、屈みこんで息をついた。
 高架線になっていて、レールがそこの地面と共に宙に浮き上った感じである。赤や青の信号燈が点在して、大きな星が地上に降りてきたかのようである。それから先は空漠たる闇夜だ。見つめていると、巨大な物象が浮び上る。それが、近くまで迫ってきては、煙のように消える。偉大な車輪か、壮大な歯車か、広大なベルトか、強力なモーターか、飛行機のプロペラか、いやそれら
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