かべて、じっと私の方に眼を注ぐのである。
瞼に浮かぶそういう姉の姿を、今、眺めてみると、しみじみと胸にこたえるものがあって、なにか淋しく頼りないものに思われるのだ。主人は学者であるが、特別な著述もなくて貧しく、これから先、どういう風に暮してゆくのであろうか。病気にだって罹るかも知れない。久子という名前まで、なにか儚ない感じがする。彼女の存在が既に淋しく頼りないとすれば、子供だってそうだ。あの子の今日の弁当のお惣菜には、何がはいっていたのであろうか。
「田代君、なにをにやにやしてるんだい。」
笠原がふいに声をかけたので、私はぴくりとした。次に、彼の言葉の意味が通じると、私は狼狽した。にやにやなんかしていなかったはずだ。人間の存在の頼りなさ、血のつながりの悲しさ、そういうことをしみじみ味わっていたのだ。それから、姉の子の弁当のお惣菜のこと。私の今日の弁当には、蒲鉾にすずめ焼がはいっており、それは昨夜の酒の肴の残りものではあるが、うまかった。もしも、そのささやかな一時の幸福について、無意識にも私が笑みを浮かべていたとすれば、何たることだろう。
私は眉をしかめて振り向いた。そして、こんどは意識して、憂欝な笑みを浮かべた。
「原子爆弾なんか、どうだっていいさ。僕には何の関係もない。」
私はぼんやり、原子爆弾の話を笠原たちがしているのを、耳に入れていた。ソヴィエトが原子爆弾を所有していることが世界に公表され、国際政局に新たな波紋が描かれてきた、そういう新聞記事が一般の話題になってる時だ。然し誰の意見も、新聞記事の埓外には出ず、つまらぬ臆測をこね廻してるに過ぎなかった。そして不思議なことには、原子爆弾を怖れながらも、戦争を望むかのような気分が漂っていたのである。日本は戦争の当事者ではないから、もう原子爆弾は落されない、という想定のもとに、戦争は起るかも知れないと冷淡に忖度してるのである。平和はどこへ行ったのであろうか。
「それでも、戦争はどうなんだい。」と笠原は言う。
「戦争だって、僕には何の関係もないさ。」
私の憂欝は皮肉になり、私はもうそれきり口を利かず、自分のデスクに戻った。
横手の席が空いていた。堀田の席だ。専務に呼ばれたきり、長く戻って来なかった。おかしな男である。事務が粗漏でそして怠慢、というのが彼に対する重役連中の一致した意見だ。しばしば叱責されたが、いつも彼は平然としていた。朝の出社に遅れることはあっても、夕方の帰りを急ぐことはなかった。口数が少く、ものぐさで、ひとを喰ったようなところがある。
その堀田が、ふだんから蒼白い顔を、なおすこし蒼ざめさして、席に戻って来た。卓上に肱をつき、へんな苦笑を浮かべて、煙草を吹かした。
「どうしたんだい。」出しゃ張りの笠原が真先に尋ねた。
「なあに、円満辞職の勧告だよ。」そして彼はまた苦笑した。
その苦笑が、実に変梃なのだ。私はそのような苦笑をめったに見たことがない。彼は髪の毛を短かめに刈り込み、強度の近眼のため目玉が飛び出してるように見え、頬は蒼白いが肉附が厚ぼったく、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]は円く短い。その頬に、ゆらゆらと震えるような皺を軽く刻み、飛び出てる目玉を据えたまま、一文字に結んだ口を長く引き伸し、鼻下をへんにくしゃくしゃにして、苦笑したのである。そのまま待ち続けても[#「待ち続けても」は底本では「持ち続けても」]、笑い出しもすまいし、泣き出しもすまいし、ただ屈辱に甘んじてるだけの、卑屈な印象を与える。その苦笑はすぐに消えたが、私の心に暗い影を投げ入れた。
堀田は煙草を吹かしている。誰も暫く口を利かなかった。やがて笠原がまた尋ねた。
「君は、それを承知したのかい。」
堀田は笠原の方を向かず、窓の方を見ながら答えた。
「饒舌るだけ饒舌らせて、最後に承知してやった。どうせ、僕が首切られることは分っている。退職金でも貰って、職場転換だな。」
馘首流行の時代だ。政府の方でも人員整理。民間でも人員整理。そしてこの会社でも既にそれに着手しているし、われわれの室では堀田が槍玉にあがることは、暗黙のうちに分っていた。従業員組合というものが出来てはいるが、規約などもいい加減なもので、この会社のような形体では、経営者側に対しては全然無力なのだ。その上先方には、他の姉妹会社へ転任させて苦境に立たせるという手段もある。この職場転換には、一ヶ月ほど前、同僚の原野がすっかり困却した例がある。堀田はいま、職場転換だとうまいことを言った。
だが、彼はこれからどうするつもりなのであろうか。退職金とて、五万かせいぜい十万に過ぎないだろう。そんな金で何が出来るものか。彼には妻と二人の子供がある。財産はないらしい。或は前々から何等かの心算があったのかも知れないが、それとて覚束
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